座敷で昼寝をして目を覚ますと、隣で大の字になって鼾をかいていたはずの御柳の姿が無かった。
縁側の向うから、蝉の声が雨のように降る。
軒先に吊るされた風鈴は、すこしも揺れていない。
明るすぎる向うの光景は薄い膜が掛かったようで、現実感に乏しい。
家の中は押入の奥から引っ張り出してきた、汚れた扇風機がだるく首を降る音だけが静かに鳴っている。
普段あまり使わないらしい仏壇のある奥の座敷は、しかし家の中でいちばん涼しい。
御柳は玄関の前でしゃがみ込んで、緑色のビニィルホースを楽しげに振り回していた。
開け放した玄関から、熱気が入り込む。
ここ数日晴ればかり続いている所為か、外の空気はどこか埃っぽい。
寝起きのままで開き切らない瞼に、強烈な日差しが刺すようで、猿野は目を細めた。
水飛沫が太陽光を跳ね返してきらきら散って、ちいさな虹を作っている。
御柳イ、と呼べば、何だよ猿野遊んで欲しいのかよオ、と答えが返った。
「莫ッ迦じゃねえの誰が、」
三和土に降りてビィチサンダルを履く。
乾燥して痛んだ黄土色の髪で覆われた頭を膝で軽く蹴っ飛ばしたら、爪先に引っ掛けていただけだった空色のビィチサンダルが飛んで、御柳に笑われた。
片足で跳ねるように歩いてビィチサンダルを取りに行き、拾う。
御柳が振り回しているビニィルホースから流れ出す水の所為で、鼻緒が濡れてしまっていた。
「暑くねえ?」
「夏は暑いって知らねエのかよ猿野」
白い太陽が空の真ん中でひかっていて鬱陶しい。
薄暗い室内から玄関へ出て来た猿野の視界はまだ眩しさと眠さではっきりしない。
御柳は嬉しそうにホースで水を撒いている。
玄関の敷石から玉砂利、その前の車道のアスファルト、向かいの家の塀に電信柱まで水浸しだ。
「お前何やってんの」
「打ち水」
「知ってるけどよ、撒き過ぎだろ」
御柳がすこし動くと、うすっぺらいオレンジ色のビィチサンダルのウレタン素材が湿った音を立てた。
駅前の商店街のワゴンに山積みにされていた、色違いの安物のサンダルを買ったのは、まだ梅雨が明ける前だったと思う。
歩き方の下手な猿野のサンダルは、踵だけが大きく磨り減っていて、不経済だと御柳に莫迦にされた。
必要以上の水を垂れ流して、本来の目的から遊びに転じてしまっている御柳のほうが余程不経済だ。
御柳の鼻の頭に汗の玉が浮かんでいる。
藍色の甚平を着た背中の真ん中が汗で湿っている。
黒く湿った足元の玉砂利の表面やアスファルトに埋まった小石のちいさな角のひとつひとつで、太陽がひかっていた。
濡れた指先でビニィルホースの先を押し潰して、放水させる。
大きく腕を上下に振るから、水が蛇のようにうねる。
白い軽乗用車が右から左へ走り抜けて、御柳の撒いた水を跳ね上げた。
ちかちか瞬く水の反射が眩しい。
御柳の隣に座り込むと、お前もやりてーの?と訊かれた。
「別に」
御柳がまた笑うので睨みつけてやると、御柳は濡れた人差し指を自分の右頬に押し当てて見せた。
「畳のあとくっきり」
云われた場所を触ってみると、確かに皮膚にでこぼこした感触がある。
御柳は口角に意地の悪い笑みを乗せていて、何時ものことながら腹立たしい。
「寝ぼけてるっしょ」
「別に」
御柳は突然猿野に手にしていたホースの先を向けた。
避ける間も無く猿野は迸る水を頭から被る。
思わず閉じた瞼が冷たい水流に晒される。
当然髪もシャツも、下着までびしゃびしゃだ。
「何しやがる!」
「顔洗いてーかなーと思って」
「余計なお世話だっつーのッ!」
「着替え貸してやるって」
「当たり前だ!」
濡れた両手で顔の水滴を拭うと、御柳はホースに繋がった水道の蛇口を捻るために背を向けていた。
その背中に左足に履いていたビィチサンダルを脱いで投げ付けた。
べちゃっという音を立てて命中したそれは、鼻緒を天に向けて玄関先に落下した。
只でさえ汗で湿っていた背中に、一際深い水の染みができる。
その仕返しにすこしだけ満足してフンと笑うと、御柳は首だけで振り向く。
「親切を仇で返しやがって」
「嫌がらせの間違いじゃねえのかよ」
「分かってねーなあ」
「分かるかよ」
御柳は歩きながらビィチサンダルを脱いで、揃えもせずに室内に上がった。
玄関を潜れば光量の違いに網膜はまだ慣れなくて、視界は強く翠を帯びている。
自分よりすこし広い歩幅分を開けて、無造作に置きっ放しにされたオレンジ色のビィチサンダルを腰を屈めて拾い上げる。
髪の先とシャツの裾から水滴が落ちて、灰色の三和土に吸い込まれた。
欠伸がひとつ零れる。
何とはなしに目を覚ましてしまったけれど、ほんとうはまだ眠い。
夏の水