他人の家の空気と黴の匂いがする。 鼻に触れるシィツの冷たさ、乾燥した室内。 オフホワイトの壁紙の貼られた天井の四隅から、闇が忍び寄る。

カァテンの閉まらない窓は磨き上げられた鏡のように室内の様子を映し出していた。 分厚い木製ドア、ベッドの上に寝転がって雑誌を捲る御柳、白い壁に貼られた文字だけの素っ気無いカレンダー、ガラスのテーブルの上に並んだペットボトル、テレビの前に座った俺のカッターシャツの肩。 外は何時の間にか暗い。 「うわ、雨」 「あー?」 御柳が漫画雑誌の黄色の頁を捲りながら窓の向こうを見て、明日は部活休みになんねえかなアと云う。 暖房が動く静かな電気の音がして、耳を澄ませば窓ガラスと瓦屋根を雨粒が打つ音も聞こえた。 銀色の細い糸が、ガラス窓に映った半透明な室内風景の向こうで部屋の明かりを受けて鈍くひかる。 隣家の二階に点いた暖色の灯り、電柱に取り付けられた水銀灯の寒色の灯りが滲んでぼやける。 「傘貸せよ」 「帰ンの?」 泊まってけばいいっしょと御柳は云って、隣の隣の部屋、と付け加えた。 「蒲団あるから持って来いよ」 「オメーん家は客に蒲団出させんのかよ」 御柳はベッドの上でごろりと体勢を反転させて、仰向けになった。 漫画雑誌を掲げて、立てた膝を軽く組む。 ぺらりと紙を捲る音が響く。 置きっ放しの空になったスナック菓子の袋を細く折って結び、部屋の隅のごみ箱に向けて投げる。 スチールの筒の縁にかつんと当たって跳ねて、外れたごみはフロォリングの床に落ちた。 細かな傷のたくさん入ったガラステーブルに置かれていた携帯電話を取り上げる。 制服のポケットに突っ込んで立ち上がった。 「やっぱ帰るわ」 御柳は安っぽい紙の黄色いページから顔を上げて、学生服の上着を羽織ろうとする俺を頭の天辺から爪先まで見渡した。 「パジャマ貸してやってもいいけど俺のじゃでけえよな」 「そんなに変わんねーし大体泊まんねーよ」 天井のあまり高くない御柳の部屋の真ん中で立つと、天井傍に取り付けられた暖房の生暖かくて乾燥した風が髪を撫でた。 空気がすこし澱んでいる。

結局御柳は布団を敷いてくれた。 友達ン家に泊まる、という旨の電話を、電波の弱い御柳の部屋の中で辛うじて音声がまともに届く、窓の傍に立ってしている間に隣の隣の部屋、から蒲団を全身で抱えるように持ってきた。 通話が終わった猿野に、菓子やペットボトルや筆記用具なんかが乗ったままのガラステーブルと、床に散らばったかばんや漫画を部屋の隅の寄せるように指図する。 部屋に顔を出した御柳の母親が、盆に山盛りのごはんと天麩羅とつゆとポテトサラダと沢庵を持ってきてくれた。 折り畳まれたままの蒲団を御柳のベッドの上に積んで、フロォリングに胡座をかいて夕食を取る。 硬めに炊かれたごはんが美味しい。 ガラスポットに入れられた麦茶は冬なのによく冷やされていて、暖かな部屋の中で飲むのに丁度良い。 食道を滑り落ちる冷たさが、温かさでぼんやりした意識をほんのすこし明瞭にする。 風呂どうするよ、と聞かれたが一瞬考えて、今日は部活も無かったし寒くて汗もかいていないから別にいい、と答えた。 入浴のために御柳は浴室のある階下に消えて、俺は俺のための蒲団が乗って狭いベッドに上がった。 蒲団をクッション代わりにして寄り掛かり、御柳の捲っていた漫画雑誌を開く。 窓の外の雨は音も無いまま降り続いている。 黒黒した闇の中で雨粒が瞬く。 階下からテレビの声と御柳の両親の笑い声が聞こえる。 濡れた髪のまますぐに御柳は部屋に戻ってきて、ベッドに座っている俺を蹴った。 「そこ俺の場所」 「別にいーだろー」 「いくねーの」 俺を追い落とすと、蒲団も乱暴に床に降ろして、御柳はベッドに寝転がった。 濡れた髪から滴り落ちる雫がいくつも、皺の寄った紺のストライプのシィツに吸い込まれていく。 「髪ちゃんと拭けよ枕、黴生えるぞ」 「あー、もうちょっと生えてるかも」 御柳はシィツと揃いのカバーの掛かった枕を、蒲団を床に広げようとしている俺に見せた。 紺と白のストライプの生地に、ぽつぽつと黒い点が見える。 「うわッばっちい!信じらんねーよお前!」 御柳は何食わぬ顔でその枕に頭を乗っけた。 「信じらんねえ」 もう一度云う。 「お前意外と潔癖」 枕には御柳の頭から伝った水分が染みている。 今しがた自分が敷いた蒲団を見遣る。 「もしかしてこっちもかよ」 「そっちは客用だから平気だろ」 濡れた髪をがしがしと掻き回して、御柳は寝そべったままカァテンを閉めた。 鏡のような窓の向うの闇も、その中に浮かんでいる自分の姿も、分厚い薄灰色の布に隠された。

渡されたパジャマ代わりのジャージに着替えた。 丈も袖も確かにすこし余って、御柳はやっぱりなという顔をしたけれど、悔しかったので無視をした。 重くなってきた瞼を擦って、いつもより1時間早く目覚ましに使っている携帯電話のアラームをセットする。 大きな欠伸をした御柳は、身体を半分起こして部屋の電気を全部消した。 「あ、」 「何」 「お前豆電球点けねーの」 「点けねー」 「そ、」 御柳は軽そうな布団を肩の上まで引っ張り上げて、壁を向いた。 遮光能力の高いカァテンは、御柳の部屋のすぐ傍に立っている水銀灯の軽薄なひかりも勿論遮断している。 さっきまでひかっていた蛍光灯の円形の残光だけが視界に残っている。 それ以外を覆う闇は、じわじわとひかりの残像を朧げにしていく。 寝返りを打つと、シィツの擦れる音がやけに煩く響いた。 客用だと御柳が云った蒲団は目に見えて黴は生えていなかったけれど、普段日の当たらない押入にでも突っ込まれているのだろう、どこか湿った匂いがする。 天井に向けていた首だけをそっと御柳に向ける。 闇に慣れて来た目が、暗い部屋の中で一際暗い影を作る蒲団の盛り上がりを捕らえる。 動かない影。

「御柳、もう寝た?」

まよる