頭のずうっと上から降り注ぐ蝉の声が、鼓膜に響いて頭痛がする。 蒼い草の匂いに胸が詰まる。 高い枝に繁った葉の隙間から零れる陽光が眩しくて、目が眩んだ。 けほん、と軽く咳き込むと、前を歩く猿野が振り向く。 「何だよ御柳、風邪?」 夏風邪ひくのは馬鹿なんだぜェ、と猿野は生意気そうに上向かせた顎を動かして、よく通る声を吐き出す。 猿野の後ろの杉や檜の幹の隙間から、傍を走るJRの電線が細く蒼空を区切っているのが見える。 顎や鎖骨の窪みのあたりを滑り落ちていく汗の感触が気持ち悪い。 裸足のまま突っ掛けたスニーカーの中は、何時の間にか砂が入り込んでいて、そのざらつく感触がすこしだけ気にかかる。 何と云い返してやろうかと逡巡しているうちに、猿野はもうこちらに背を向けている。 汗染みが広がった、シャツの張り付いた背中が、膝まで伸びた凶器のように鋭い葉っぱを有す夏草を掻き分けて、前を進んでいく。 右手には真新しい昆虫網、肩から斜めに提げた人工的な橙色をしたプラスティックの虫篭。 つばの広い麦藁帽子まで被ったその姿は、小学生男子が夏休みの絵日記に描く自画像のようだ。 吸い込めば咽喉に引っ掛かる大気は、この季節特有の土と植物と太陽の匂い。 蝉が鳴いている。 いくつかの音程の異なる鳴き声。 名前を知っているのは、油蝉くらいだが。

蝉の声は何処か水音に似ている。 濁り無く流れる清流のように、細胞の隙間という隙間をすべて擦り抜けて行くせせらぎのように。

電車が通った。 がたがたごとんという走行音が聞こえてから、遠く警報機が打ち鳴らす鐘を模した音に気付いた。 猿野の家から自転車で10分程の神社の裏の、雑木林の向うを滑っていく普通列車の、灰色の屋根だけが見える。 5両繋がった電車は右から左へすぐに消えて、名残惜しそうに警報機の音だけが微かに響く。 猿野は殆ど下を見ないで歩いていく。 目的地が決まっているような早足で数歩進み、すぐに立ち止まり上空を見上げて首をぐるりと回す。 杉、檜、欅に小楢に椎、の幹を見上げ、そこに獲物の姿を求める。 昆虫網を振り上げ、大樹の幹に乱暴に叩きつける。 青青とした葉を繁らせた枝を掠めた昆虫網は、大きな鋸葉を数枚散らせた。 茶色い羽の油蝉はジィッと一声最後に鳴いて、白い網に捕らわれるよりも早く、尿を撒き散らして飛び立った。 雲なんか欠片も見えない空が、少しづつ色の違う葉っぱの隙間から覗いていて、油蝉はその細切れの空のひとつに姿を消す。 頭上に広がった枝から数枚の木の葉が舞い落ちる。 風が無い雑木林の中で、木の葉は時折白い葉裏をちらつかせ、ゆっくり下草の生茂る地上に落下する。 白く凶暴な夏の昼間の太陽は、幾重にも重なる青葉によって僅かに和らぐ。 蒸れるような濃い大気はどろりと身体に纏わりつくようだ。 猿野がちいさく舌打ちをした。 眉を寄せて硬い樹皮に覆われた檜の幹を、雑木林の土で黒くなったスニーカーの爪先で蹴り飛ばす。 立派なその木は勿論揺れたりなんかしなかった。 風がそよりとも吹かない。 暑い、と声に出しても気が紛れるわけも無い。 頬を時折細い枝が掠める。 気付かぬうちに髪に蜘蛛の巣が絡み、剥き出しの脛に尖った枝が擦れ、白く薄い傷ともいえない傷が出来る。 長めの前髪に隠された額を汗が滑って、眉毛のあたりに溜まっている。 緩く握った拳の甲で拭っても、汗はまだ噴き出してくる。 暑いのは、苦手だ。

世界はとても静かだ。 途切れることの無い蝉の声は、確かに耳に届いてはいるのだけれども。 控えめに白い花を咲かせた草を踏み付けていく猿野の足音も、自分の吐き出す長い溜息も、どうしてか薄い膜越しに見ているように曖昧だ。 「さるの、」 枯れ枝を折り腐った落ち葉を踏み締めて前を歩く猿野の背中に呼び掛ける。 猿野は気付かないから、足を止めることも無い。 半袖シャツの袖を肩に巻き上げている猿野の腕は、肘と肩の真ん中で、くっきり色が変わっている。 栗色の髪が麦藁帽子の隙間から覗く。 そうだ、そういえば週刊誌に連載されている国民的人気の海賊漫画の主人公が、あんな格好をしていた。 真夏に祝福されたような、小麦色の肌。 日に晒されても、赤く火傷のようになってしまう自分とはまるで違う。 小麦というのはどんな色をしているのだろうか、なんて他愛も無いことを考えてみる。 猿野の背中は小さくなっていく。 枝に、幹に、木の葉に隠されて。 「さるの、」 とちいさな声を紡ぐ。 高温の大気に意識がすこし朦朧とする。 唇と舌が縺れるようで、動かした器官が正しく音を響かせたかどうかも疑わしい。 蒼い空が見えていた。

頬と額に何か冷たいものが触れていた。 重い瞼を無理にこじ開けると、視界に広がるのは見慣れた猿野の顔と、その背景に四方八方に広がった青葉に、僅かな蒼空。 針のように突き刺さる白い日光に顔を顰めると、突然目の前が暗くなる。 何か硬いものが触れる背中が痛い。 草の匂いが先程までより強くなっている。 目に映る景色の違いに、土の上に仰向けに寝転がっているのだということを漸く理解する。 「オマエいっきなり居なくなるからびびったっつーの!!つーか!マジでしんどいならしんどいって云えよな!」 猿野は一息でそこまで云って、黙った。 目を覆ったのは薄く濡れた猿野のてのひららしい。 冷えた表面の心地良い感触はじきに温んでしまう。 後に残るのは、常よりも高い猿野の体温と、目尻からこめかみを伝い地面に吸い込まれていくのだろう水の雫。 頬に当てられているのはもっと硬く冷たく、そしてやっぱり薄く濡れている。 カーブを描くその金属は、形状から汗をかいた缶ジュースだろうと察しをつけた。 平均以上の体格の男子高校生2人分の体重を受け止めて、潰れてしまったタイヤの自転車を漕がされて登らされた神社の前のなだらかな坂道の中程に、色褪せたビニィルの庇を張り出させた萎びた商店が合って、その前に自販機が置かれていたような気がする。 猿野のてのひらに、視界は奪われている。 その下で目を開けると、オレンジ色の世界が広がる。 眼球を動かすと、指の付け根の膨らみに睫毛が引っ掛かる。 「さるの、」 絞り出した声は掠れている。 蝉ばかりが喧しく鳴き立てる。 「悪ィ、」 蝉の声に掻き消されそうな猿野の声が、した。 無防備に晒していた首筋に、冷たいものが音も無く1滴零れ落ちるのを感じた。 明るさに薄くしていた瞼の間から、猿野の指の隙間を覗き見る。 顎の先に留まる透明な汗の雫が、真昼の日光を受けてほんの一刹那煌めいた。 ああ、なんて忌忌しい。

少年時雨