白がよっつ続いたら次は空色、とはいってもほんとの空の色とはかけ離れた安物のペンキみたいなのっぺりした色、がひとつ。
素っ気無くて野暮ったい、規則正しく一続きに整列した真四角のタイルが壁から床までを覆っていて、その隙間の目地は黴で黒くくすんでいる。
置かれたバスタブは、白とは云い難いような薄汚れた陶器製。
外国映画で見るみたいな猫足のそれはお洒落ぶってるけど、こびり付いて取れない水垢やなんかでちょっと不衛生的な感じ。
真鍮のシャワーヘッドはすこし鍍金が剥げていてみすぼらしい。
備え付けのバスソルトを目分量で入れようと振った拍子に、ざらざらと中味の大半が湯を入れ始めた浴槽の中に沈んでしまって、降りしきるシャワーの雨ですっかりバブルバスが出来上がってしまった。
温かな湯は濃すぎて噎せ返るみたいなシャボンのにおい。
湯気で曇った鏡。
半透明のぺらぺらした防水効果だけを求めたビニィルのシャワーカーテンについた水滴。
境界の扉が総ガラス貼りとかじゃないのだけが救い。
天井の壁紙に浮かんだ染み。
そんなものを視界の端に入れながら、いつもの癖でバスタブにざぶんと頭の天辺まで潜ってしまった俺はおもう。
眼が痛い。
肌触りが悪そうなくらい無駄に糊だけが効いたシイツは、ショッキングピンクとかレモンイエローとかエメラルドグリーンとか気違いじみた色彩のストライプが、あんまり洗濯し過ぎて色褪せている。
時計と灰皿の乗っかったちゃちなサイドテーブルが眩暈がしそうな色のどでかいベッドの横にちんまり収まって、ごてごて飾りの付いた照明の暖色の灯火をひからせる。
ベッドの正面に置かれたテレビのブラウン管からはけたたましい笑い声が垂れ流されていて、床に胡座をかいた御柳はどんな味なのか何か気持ち悪い色のガムを形の整った歯で噛んで膨らましながら、表情を崩すどころか眉間に細かな皺まで寄せて次次映り変わるガラスの表面を睨み付けている。
床は絨毯じゃなくって湯上りの濡れた足の裏にぺたぺたくっつくリノリウムなんて上等なもんじゃない不愉快なビニィルで、折角綺麗になった皮膚がまた真っ黒になってしまいそう。
壁の両側に寄せられたカーテンの色はこれも頭の痛くなりそうな熱帯に咲く毒毒しい花のようなどぎつい紫と白の水玉。
開け放った窓から冷えた大気が容赦無く侵入してくるせいで、室温は低くて髪の温度がすぐ下がる。
1時間くらい前まで甘ったるい味と炭酸とアルコールで出来た飲み物が入ってた缶と、チョコレイトとカスタードと生クリィムとバナナとあとなんだったかとにかく砂糖の味のする女の子が瞳を輝かせて食べてるのが似合いそうな見た目の食べ物の残骸と、御柳がいっこいっこ神経質に除けたパイナップルの四角い果肉と、透明なプラスティックのスプーンと、それらの入ってた白いかさかさした袋、を跨ぐ。空気はこれでもかってくらいに入れ替わってる筈なのに、狭い部屋の中は甘い甘いにおいでいっぱい。
甘いものは嫌いじゃないけど、ホールのタルトをふたりで食べちゃってさすがに胸焼けしそう。
跨いだ空缶をまだ濡れてる土踏まずで転がした。
金属とプラスティックの当たる硬質な音。
御柳がブラウン管のつるつるした表面から視線を逸らさず毛糸の塊を投げ付ける。
原色のオレンジ色に細かい緑の星が規則正しく散った、どう見ても蜜柑にしか見えない柄がちょっと気に入ってる愛用のマフラァ。
「風呂長過ぎンだよいっかいいっかいテメエ溺れてんじゃねえの?ホラ行くぞ外」
な、さるの、と。
眉間の皺をほんのちょっとだけ緩めて、今だけ俺より視線の低い御柳が。
数字を減らしていく扉の上の階数表示の蒼白い光を見詰めながら、甘いということについて考える。
甘さというのは俺の乏しい知識の中ではそのまんま砂糖に変換される。
それも紅茶や珈琲に入れる、細長い袋に適量入ったあの白いさらさらのやつ。
あとは茶色くて四角くて透き通ったなんとく懐かしい気になる粗目砂糖。
蒼穹の下で真っ黒に日焼けしたこどもが齧る砂糖黍。
この辺が俺の想像力の精一杯。
でももうちょっとだけ脳味噌の普段使わない皺を使ってみる。
蜂蜜、健康に配慮したんだだとか砂糖じゃないらしい何か人口甘味料。
果物の甘さは果糖というから砂糖の仲間か?
少学校の校門脇の花壇に植えられた夏休み中の登校日に啜ったサルビアの蜜。
これは蜂蜜の同類か?
ここらへんで本当にもう限界。
頭の中でいくつか並べた物体の甘味は結局全部味覚で感じるもの。
甘い匂いってのはよくいうけども、それって結局ヴァニラエッセンスの甘ったるさじゃなあい?
あの食欲をそそる匂いにそれこそ蟻んこみたいに誘導させられて茶色いあの液体をぺろりと舐めてみた経験は誰しもが持つだろう。
そうだ、あれは舌がひん曲がるほどに苦い。
だからあれを甘いもの、の範疇に入れていいのか俺は迷ってしまう。
甘いってのと砂糖との違いを俺は知りたい。
世の中に溢れる甘いもの。
甘い砂糖菓子。
甘い花を模した香り。
甘い俺。
甘い御柳。
甘いということ。
朱色を泥水で洗ったみたいな薄汚れた絨毯を踏み締めて、高度を下げていく狭い密室の中で、蜜柑のマフラァが緩んできたのを巻きなおした。
風呂上りのまだ湿った髪から、拭き取りきれなかった水滴が落ちて、つめたい。
目的地に到着する瞬間のあのほんの一瞬の無重力感がエレヴェーターの醍醐味。
だから俺はエレヴェーターがあれば必ず利用する。
階段がしんどいからとかエスカレーターは乗るタイミングと降りるタイミングがいまいち難しいからなんて理由じゃない。
浴室でたっぷり時間をかけて温めた身体をパーカーとジーンズに包んで隙間をマフラァで埋めて外に出る。
湯気でも出そうなほくほくした桜色の頬をしていると思う風呂上りの暖かい俺。
莫迦莫迦しいね。
エレヴェーター様が下界に降臨したから俺の足りない脳味噌によるとりとめのないのかあるのかわかんない思考は終了。
汚い雑巾でまあるく一拭きしただけと一目でわかる自動ドアのガラスの向うに広がる冷たい世界。
冷たいってのは両方の意味だ、勿論。
湯冷めして風邪でもひいたらお前が責任とってくれんのかよ御柳。
なあ10年後に。
20年後は駄目だな脂ぎってて腹とか出てそうで俺流石に想像したくない。
や、わかんねーけど父親見たら多少想像つくだろ、遺伝の神秘が。
薄くはなんねーよ多分、な。
で、10年後。
10年後っつたら俺もお前もにじゅうはちになってるわけだけど。
シシャゴニュウしたらミソジになるオトコのキモチってお前今考えられる?
俺は無理。
俺はさっぱりわかんネエ。
明日のことは分かるけど明後日になるとちょっと微妙。
来年なんて予想もつかないね。
ぶっちゃけ生きてるかどうかもよく分かんなくネエ?
でもまあ10年後に生きてるとしよう、ここは。
そんで10年後はスーツと名刺とブリーフケースの手放せない俺になってて仕事帰りに赤提灯の一杯呑屋で財布の中身と次の給料日までの日数を数えながらちびちびアルコールを体内に流し込むわけ。
そんで思い出話なんかすんのよ。
ほんとが8割、嘘が2割、ちょっとだけ誇張した会社の同僚なんかにゃ確認しようがねえ青い春の物語を。
俺とお前の話。
居眠りするフロントの前を通り抜けて、いっそ態となんじゃないかとおもうくらい最低の趣味の安宿を出る。
髪に温度を奪われていく俺の可哀相な皮膚に追い討ちをかける刺すような大気。
星が出てるのが厭だ。
そういうんじゃあないから、ね。
星とか月とか空の蒼さとか風にもうすぐ混じる近付く春の匂いとか、そういうのを感じて胸をときめかせるようなロマンティックじゃねえんだよ。
でも矛盾してるよと告げる声も確かに聞こえてて、なんでかっていうと俺が何より求めてるのが即ちロマンティックにすこし似てるかもしれないセンチメンタルだからだ。
多分ね。
感傷。
感傷って何よ。
車の通らない道を横断して、シャッターの閉じたスーパーマーケットの前で煌煌と輝き自己主張する機械に近付く。
その機械はまだ稼動していた、っていう言い方はちょっと正確じゃない。
24時間動いてはいるその機械は夜半の6時間はまったくただの木偶の坊になっているだけだ。
俺はどうでもいいけど御柳はそれがえらく気に入らないようで、時時腹立ち紛れにその瞬間はまったく役に立たない機械を蹴り飛ばす。
壊したところを見たところはないけれど、履いてたビィチサンダルを他人様ん家の庭にまですっ飛ばして、爪先を両手で抱えて悶絶してたところは見たことがある。
腹を抱えて指差して笑ってやったら脇腹に結構重いストレートをくらった。
鉄の塊蹴り飛ばすのは固い靴履いてるときにしとけよ考え無しのお前が悪いね八つ当たりすんな。
むかついたから腰までの低い竹垣を乗り越えて他所のお庭に不法侵入し、丁度庭木の陰になって街燈の届かない暗い庭の花壇と思しき土中に浅く埋もれたビィチサンダルを救出して、丁寧にお返ししてやった。
野球部で鍛えたスピードとコントロールでもってまだ爪先を擦ってる御柳の無防備な後頭部に。
なんて優しい俺。
今夜はまだそんな時間じゃないからベンディングマシーンは皺くちゃのおっさんを飲み込んで変わりに緑色の軽い紙箱と銀色と錆色の硬貨を落っことした。
「ニコチン切れてもう死にそう」
腰を軽く屈める御柳の、枯草みたいな色と質感の髪に縁取られた顔が、発光する機械に蒼白く照らされて。
100マイルの道 /// ファニータイニーブルーサンデー