左端から順番に30人まで数えてアホらしくなって止めた。
世の中の不公平さを嘆こうかと思ってアホらしくなって止めた。
アホらしいのは俺だ。
「犬飼くんもさあいいかげん慣れてもよさそうなもんだけどねえ、これからどうするつもりなのかなあ」
ねえシバくん、と兎丸が銀色のアルミサッシに背中を預けてニンテンドーDSの液晶画面から視線を外さないまま、呆れたみたいな声を出した。
考える事はあんまり変わりない。
3年間一緒に居りゃあ思考回路も多少似てくるモンなのか。
いやそんなわけねえよな、恐ろしい。
あの光景を見れば誰だって同じことを考えるっていうだけのことだ。
単純な話。
隣で司馬がいつものちょっと困ったみたいな微笑を見せた。
下がった眉と緩く上がった口角はもう随分見慣れたもの。
綿を重ねたみたいなふわふわの空がちょっとずつ剥がれ落ちてくるように、塵みたいな雪が舞い落ちて、積もることなく地表に融ける。
光源のはっきりしない冬空の底のグラウンドでは、ストロボの攻撃的な光がしきりに瞬いてすこし目障りだ。
緑のフェンスに寄りかかる女の子、校門の脇に並ぶ女の子、校舎の窓枠から身を乗り出す女の子。
野郎共はどこに隠れてやがるよ。
「今日はこれからどうするんだって?」
グラウンド空くのかなあ。
手の中の機械から零れる電子音みたいな兎丸の高い声は、卒業を目前に控えた今になっても初めて聞いた頃と変わらない。
「取材のあとはいつも通りの練習して帰るみたいっすよ」
子津が律儀に返事。
肩にはもう練習着の詰め込まれたスポーツバッグを引っ掛けている。
ちなみに俺が返事をしなかったのは、回答を知らなかったわけじゃなくてめんどくさかったからだ、当然。
今日の授業が全部終わってからかなりの時間が経過した筈だが、校舎からはまだ生徒の姿が消えない。
その上、野球部が練習するグラウンドが見下ろせる3階のいちばん東のこの教室には、他所のクラスの生徒までがやって来る。
見下ろされる先でカメラに囲まれてる未来のスターのせいだ。
全く鬱陶しい。
赤い顔をしてるのが、この距離からでもはっきりと見て取れる。
でっかいレンズのついた高いらしいカメラの所為じゃないだろう。
やたらと気合の入った化粧と清楚だけど可憐に見える、と本人は思ってるだろう春を先取った白いパンツスーツでマイクを向ける地方局の女子アナウンサーを、頬杖を突いて見ていたら、兎丸に腕を強く引かれて思わず顎を落っことした。
「ね、兄ちゃんは今日はどうすんのさ」
「練習してくんすか」
兎丸のボーイソプラノと子津のテノールのハーモニイ。
いや、よく知らないけど。
後ろで司馬がにこにこしてていつものサングラスに僅かに歪んだ俺の顔が映り込んでいる。
よく知るチームメイトと見飽きた俺の顔。
「や、俺は今日は」
「なあに、なんか用事でもあんの」
「御柳と」
ふうん、と兎丸が云った。
学校の購買部で買った紙パックのグレープフルーツジュースでちびちびとビタミンを摂取しながら、電車に乗って御柳ん家の最寄駅へ。
ついストローを噛んでしまう癖は、あまり見た目のいいものではないと自覚している。
御柳は改札の前の壁に貼られたJRのポスターに凭れてぼんやりしていた。
紀州熊野の深い森のポスターの前で、顔だけはいい男は立ってるだけで様になる。
短いスカート丈に茶色い髪を柔らかく巻いて私立の名門女子高の制服を纏った女の子たちが、何かを囁きながら御柳のほうを見ている。
たびたび利用するから用意した回数券を自動改札に通して、唇に挟んでいたストローを奥歯で固く噛み、顎を動かすだけの挨拶をした。
「どこ行くよ」
「お前ン家」
御柳は頷きもしないで俺に背を向けて、冷たいコンクリートの床をスニーカーの底で擦るみたいに歩き始める。
付いて来る女の子の視線は御柳の学生服の伸びた背中にぴったりとくっついたままだ。
半歩送れて歩き始めるついでに、壁に接して取り付けられた屑篭に、とっくに空になっていたジュースの紙パックを投げ込んだ。
距離は俺で測って7歩分程。
それなりに狙って投げた筈の固形物はオフホワイトの壁に跳ね返って床に落ちたけど、面倒だったから無視を決め込んだ。
ちょっとだけ罪悪感を覚えた俺はまあ常識人の範疇に含まれるだろう。
スーツ姿の中年男が不快そうにこっちを睨みつけるのを感じた。
最近の若い者はってお決まりの台詞が聞こえてきそうだ。
うんざりなんだよ。
踏切を渡らなければ御柳の家に行けない遠回りになる東口から出るのは、西口とはコンビニエンスストアの規模が違うからだ。
林檎がたっぷり入ったヨーグルトのでっかいサイズが西口では買えない。
ビタミンとビフィズス菌を摂取、いつでもたっぷりと。
でもほんとのところ、林檎に含まれるビタミンてのはそんなに多くはないらしい。
だから、気持ちの問題だ。
少なくとも俺にとっては。
「兎丸にさあ」
「兎丸って誰よ」
「お前ほんッとヒトの名前覚えねえよな」
「あのちっこいうるせえの」
「正解」
兎丸が。
ずうっと前から思ってたんだけどさあ兄ちゃんと御柳くんってどういう関係なの?
仲よさそうにも見えないのによく遊んでるよねえ。
気、合うの?
っていうか一緒に居て楽しいの?
そんなの俺が聞きてえよ。
いらっしゃいませこんにちは、とこれっぽっちも感情の篭らない店員の声に迎えられて自動ドアの中に滑り込む。
ぱさぱさに乾いた髪を耳の下でだらりとふたつ結びにしたみっつよっつ年上くらいのお姉ちゃんが立つレジの前をまっすぐ横切って冷気を吐き出す棚の前に、御柳は途中で止まって色取り取りのちいさなパッケージが並ぶ棚の前に。
林檎ヨーグルトのでかいほうを迷わず手に取って1歩右に移動。
甘酸っぱくてほろ苦いグレープフルーツジュースがまだ口内を潤していたけれど、その人工的な味がなんだかかえって咽喉に引っ掛かって、何か飲み物を持っていないと心許ない。
ペットボトルより紙パックを選択しがちなのは値段の所為だけど、こんな風にいくつも買ってしまうんだったら結果的にはペットボトルのほうが経済的だったりするかもしれない。
紅茶と緑茶と烏龍茶で迷って紅茶を選んで、それからストレートとレモンティーとアップルティーで迷ってアップルティーを選んだ。
林檎尽くしが今日の気分。
打席に立つのと同じくらい真面目な顔でガムを選んでいる御柳の横を擦り抜けてスナック菓子とチョコレイトが並ぶ誘惑の多い一角を顔の高さから床まで眺めながら通り抜けてガラス扉の冷蔵庫の前で折れて綺麗な水着の女の子がにっこり笑った雑誌に手を伸ばしたところで見たことのある顔がふたつ指の先からこっちを見ているのに気付いた。
ぺかぺかした光沢紙に印刷された顔は、立体で見るよりなんだか余所余所しくて不自然でまるで見知らぬ誰か。
輪郭で切り抜かれたふたつの人物はこんな風に雑誌の表紙に並べられることを想定していたのだろうか。
対照的な作られた固い表情とへらりと崩れた胡散臭い微笑み。
本物のひとつは多分まだ母校のグラウンドの上に、もうひとつは同じこの店内に。
雑誌のタイトルは知っているし俺もちょっとだけ乗ったことがあってそのフルカラーの記事は大事に大事に取ってある、そのたかだか680円の紙の束が、やたらと癪に障ってしょうがない。
わだかまる何か厭な感じ。
それでもこれが羨望とか嫉妬とか、そんなわかりやすいものだったらまだよかったのかもしれなくて、向かう先のはっきりしない漠然とした何かを持て余す。
それは何か芯のない軟体生物になったような不安定な感覚だ。
自意識過剰ではなく、俺があの晴舞台で残した結果は、そこそこ立派なものだったはずだ。
だから。
だから?
だから何だっていうんだ?
俺の矜持。
3年間の努力の結晶とかそんな鳥肌の立ちそうな台詞を云うつもりもさらさらないけれど、どこかでそれを拠り所にしている。
生きていく為に無意識にしていること。
狡い大人への課程。
暖房の熱気が自動ドアの開閉で逃げてしまう店内はすこし肌寒い駅の構内と外の歩道との境目で、バックヤードに続くマジックミラーの扉の上に取り付けられたスピーカーからは流行の曲が零れる。
あどけなさの残る女の子の歌声は、まだすこし早い春の歌。
左斜め上を見上げるとまあるい鏡の中から歪んだ自分の顔がこっちを覗いていて、遥か遠くに豆粒みたいにちいさな御柳の髪が左から右へと移動していくのが見えた。
知らず握り締めていたアップルティーの紙パックはすこしだけ汗をかき始めていて、どうにか片手で持っていたジュースとヨーグルトが濡れる指先で滑りそうなのを持ち替えた。
水滴のついた右手を学生服の裾で拭った。
あと2ヶ月で着慣れたこの制服ともさようなら。
シャンプーや整髪剤や化粧品の棚の横を擦り抜けレジへ回り、御柳の肩越しというよりも横から首を傾げて、カウンターを覗き込む。
細かな傷のついた天板の上には、俺の指より一回りでかいくらいの四角い緑色と銀色の硬貨。
俺がどうでもいいことを諮詢している間に御柳が選んでいたのは桜が描かれた硬貨1枚で買えるガムひとつ。
描かれた緑色の果実と、跳ねるような書体で書かれた文字はブルーアップルソーダ。
真似すんじゃねえよ。
なんて下らない言い掛かり。
くらげはかく語りき /// ファニータイニーブルーサンデー