父方の大叔母とかいう俺とどういう関係になるのかいまひとつわからない年寄りの何回忌だとかで、両親は電気代が勿体無いから早く寝なさいね、とみみっちい言い付けを残して今朝方ふたり揃って父の郷里へと旅立ってしまった。 髪を洗って顔を洗って体を擦って温かいシャワーで泡を流してから冷たいシャワーを浴びた。 夏の風呂は烏の行水。 それでもほんとは浴槽に湯を溢れそうなくらいたっぷり張って、入浴剤でエメラルドやサファイアみたいな色水を作るのが好きだけど、親の言葉を思い出して我慢した。 俺ってなんて孝行息子。 髪を伝って肩に落ちた水滴が火照った身体を冷やしていくのが心地良い。 夏の部屋着兼外出着の便利な甚平を下だけ穿いて、頭には柔軟材の効いたふわふわのタオルを被って冷蔵庫に直行。 清潔な足の裏に触れる硬くて冷たい床の温度と湿った足音。 腰を屈めて、里芋の煮付けのおいしい作り方のメモが真ん丸くて真っ黒の素っ気無い磁石で留められた、冷蔵庫の扉を開けた。 滴り落ちる冷気にうっとりと目を細める。 母よりも無駄遣いに口喧しい父がこの場にいたら、扉にかけた手を挟まれそうな勢いで閉じられるのは目に見えている。 風呂では譲歩したからここは贅沢にね。 垂れ流される電力。 夜。 背中に感じる違和感。 紙パックに入った飲むヨーグルトを取り出して、冷蔵庫の扉を踵で閉めた。 さようなら風呂上りの至福。 ブラウン管がちかちか瞬くのを透けさせる、茶の間に続く半透明のガラス戸は暑い間は開きっぱなしでその代わりに藍染めの暖簾がだらりと床擦れ擦れまで垂れ下がってて、いつも散らかりっぱなしの台所を隠している。 ほとんど確信を胸に暖簾を潜れば、傍若無人な客人が座卓の前で半分に折り曲げた座布団を枕に寝転がっている。 真正面のテレビの画面はナイター中継で、真赤に染まったスタンド席が赤と白のジェット風船を膨らましてるところだった。 邪魔くせエ、と思わず声に出た。 もう客扱いなんかしたくないその客、御柳は座布団に沈めた頭を気持ちだけ動かしておう、と挨拶か何か意味のない声をほとんど口も動かさないで漏れ出させた。 お前何してんだよ。 野球見てるンだけど見てわっかんねえの。 でかい図体を横たわらせた御柳の前には水滴をたっぷり纏ったコップと空になったお茶のペットボトル容器とじゃらじゃらストラップのついた携帯電話と自転車の鍵が平行に並べられている。 妙なとこで几帳面な奴。 ブラウン管の中、紅白の風船は紺色の空に向かって甲高い音を立てて放たれる。 あっという間に萎んで落ちてくるそれを回収する為に、グラウンドには揃いの赤いユニフォーム姿のアルバイトスタッフがきちっと等間隔に並んでいる。 風船に合わされたピントはスタンド最上段のお多福の絵とおたふくソースとでかでかと描かれた看板を写してから、渋い顔で腕を組む1塁側ベンチの中のおっさんのアップに切り替わった。 「おじさんとおばさんは?」 「父ちゃんの実家のほう」 「ふうん」 テレビの横で首を振る扇風機のモーター音がやけに耳につくことに不審を感じてから、無音のテレビに気がついた。 光だけを放出する機械。 「お前何で音消してんだよ」 「この解説者嫌いなんだって」 つうかこれ見てるとお好み焼き食いたくなるよなー、と云った御柳の連想の元は、よく考えなくてもさっきの看板だ。 単純な思考回路が俺と少し似てる。 さっき開けた冷蔵庫の上の冷凍室、かちかちのお好み焼きが入ってなかったかと記憶を辿ったけど、昼間にやきいもアイスを食べようとしたときには見当たらなかったような気がする。 飲むヨーグルトを畳の上に置いてテレビと御柳を繋ぐ延長線上に胡座で座った。 朝食にも飲んだそれは俺が口を開けたやつで、側面に書いてあるとおりの手順でやってみてもいつも縁がぐじゃぐじゃに破れて綺麗に開けない。 直接唇をつけると、冷たい繊維の感触が気色悪かった。 おまえ広島って行ったことある、と御柳が尋ねるので、中学の修学旅行で行ったと答えてやった。 回想するのは去年のこと。 初めて新幹線に乗ったのは確かあの時。 漫画とGBAとお菓子で膨れた旅行鞄を担いで乗り込んだ車両の中、隣に座った沢松と相変わらずの馬鹿話しながら、片思いしてた栗色の長い髪の女の子の姿ばっかり探してた。 合唱部に所属してたその子の普段の声は日常会話に不自由しそうなくらいにちいさくて、俯きがちに話す所為でいつも聞き取り辛かった。 卒業前の1年間を同じクラスで過ごした。 給食後の午後の授業はいつも眠くてそうでなくても難解な数式の並ぶ授業は大嫌いで伸縮式の指示棒で黒板をかつかつ神経質に叩く教師はもっと嫌いだった。 忘れもしない4月の15日、宿題の回答をさせる生徒を出席番号で決める教師ってのはあんまり多くないけれど、あの神経質な教師は意地の悪そうな外見に反して案外素直な性質らしく、出席番号15番の俺の名を呼んだ。 猿野くん、この問題を解いてくれるかな。 黒板に書かれた公式に数字とアルファベットと記号。 何語だよ。 黒板の前で理解出来るはずもない問題を前にチョークを握り締める晒し者になる覚悟を決めて、椅子にべったりくっついて離れたがらない腰をあげるお、一応開くだけ開いてたひとつ前の古文の教科書もほっぺたから離れた。 さるのくん、と内緒話みたいな声が隣の席から聞こえて、半分落ちた瞼をそっちに向けるとそのちいさな声に似合うちいさな文字が並んだノートがそっと差し出されていた。 それはもしかしなくても黒板に描かれてる数式の正しい解答。 目敏く見咎めた意地悪教師がこら、教えるんじゃないと苛ついた声を張り上げるので俺はへらりと笑ってありがと、と唇の動きだけで感謝を伝えた。 伏せた瞼の上で睫毛が震えて、桜色した皮膚に影を落としていた。 多分あれがあの子が気になりだした最初の瞬間で、その淡い気持ちは修学旅行の時まで俺の中で燻っていた。 引率の教師に連れられて見た原爆資料館とか、ホームルームの時にひとり10枚渡された色紙で作らされた千羽鶴を平和公園の平和記念像に捧げたときとか、彼女はいつも同じみたいな大人しい女の子に囲まれて真剣な顔で悲惨な戦時下の話を聞いていた。 午後からは市内を自由行動で、俺は沢松やなんかとお好み焼き食いに行こうってグルメマップを持参してた。 さりげなさを装ってあの子に近付く。 自由行動どこ行くの? わたしたちは縮景園見に行こうかって話してたの。 何それ。 綺麗な庭なんだって。 へえ。 猿野くんは?って俺を見詰める瞳の縁がすこし灰色帯びた不思議な色だってそのとき初めて気が付いた。 沢松はこっち見てにやにやしてて、それじゃ、と背を向けるセーラー服の後姿に何にも云えない俺が溜息をひとつ落とすと見てらんねえよと俺の頬を拳でぐりぐりと押した。 「うっせえお好み焼き奢れ」 なんでだよと非難の声を上げた沢松は結局お好み焼きは奢ってくれなかったけど、熱いお好み焼きを箸で四角く切り分けながらお冷の入ったグラスが空になる度遠くの冷水機までお代わりしに行く役目を負ってくれた。 やっすい同情だ。 お土産に買ったはずのにしき堂のもみじまんじゅうの包み紙を、帰りの新幹線の中でもうびりびりに破いてしまいながらそういえばあ、とクラスメイトがあの子と隣のクラスの顔もはっきり思い出せないような地味なやつが修学旅行中に付き合い始めたらしいって情報をご丁寧に俺の耳に入れてくれた。 何か地味なカップルだよなーと云うそいつの、膝の上の平べったい箱からもみじまんじゅうをふたつ掴み出すと、セロファンを毟ってふたついっぺんに口に放り込んだ。 しっとりした皮とつぶあんの甘さが咽喉に絡みついた。 だからオタフクソースの横にもみじまんじゅうの看板がでかでかと掲げられた、その球場の外野席を見るのは気恥ずかしい。 胸が傷むとか苦い気持ちになるとかそういうのとはまた違う、1年前の俺の姿。 ああでもお好み焼きは確かに食べたい。 テレビの中、ナイター中継はまだ7回裏、赤いユニフォームが打席に立つ。 ソースと青海苔がなんだか恋しくなって、入浴前にカップラーメンで済ませた夕食はもう胃の中に残ってないような腹の具合。 寝そべった御柳の背中を、大分軽くなった飲むヨーグルトの紙パックでつつく。 「おい100円やるからコンビニ行ってお好み焼き買って来いよ」 「俺そんな安くねえし」 云ったきり御柳は黙って、無音のテレビ画面を見詰めている。 「終わったら行ってこい」 んー、と唸って御柳は身体を起こしたけど、頭の下に引いてた座布団を広げてまた畳んで、再びそこに頭を乗っけた。 おまえふざけんな。

ヒロシマラバーズ