ガードレールに預けていた肩甲骨が痛くて、アスファルトと土手の境目逞しく伸びた夏草の上ですこし尻を滑らせた。
ほとんど変わらないくらいちょっとだけ低くなった視界の中、さっきまで紺色の空の中で蛍光の緑色に輝いていたコンビニエンスストアの看板が暗い屋根の影に隠れて見えなくなった。
薄い綿の布切れ1枚の向う、背中に当たるガードレールの感触はやっぱり固くてあんまり具合のいいものじゃあない。
雨なんて覚えてる限り降っちゃいないから、ガードレールは砂埃と排気ガスで真っ黒け。
降った雨に現われたところで、大して変わりばえもしないけれど。
川に平行に走るのはこの道は国道だっていうのに街燈と街燈の感覚はやたらと遠くて、土手の下、昼間は犬の散歩や暇な老人の日光浴なんかに使われる広い河原までは人工の灯りが届かない。
水量の少ない穏やかな水面だけがかすかなひかりをどこからか集めてはちかちかと瞬いて、それはまるで空に浮かぶ星屑みたいだ。
ほんとの星も空には昇っててそれはなかなか綺麗な光景ではあるんだけれども、星が綺麗だねなんてロマンチックなこと云うべき相手は傍に居やしない。
尤も俺たちはそんな間柄じゃあないけどよ。
猿野は土手下の河原で花火の死骸を片付けているはずだ。
在庫処分なんだろう、定価5000円の値札の上に、黄色い値札が重ねて貼られて2000円の値段がついてた。
一体いくら得してるんだろうと、レジでつまらなそうにマニキュアとラインストーンで綺麗に飾られた自分の爪をいじってる俺たちと同じくらいの歳、いかにも夏休みだけのバイトですって感じのやる気のない女の子の視線を一応気にしながらふたりでこっそり剥がして確かめた。
暗い河原でときどき黒い塊が蠢く。
多分あれが猿野だ。
というよりも猿野じゃない何かだとしたらちょっとおっかない。
大気は生温かくて粘度が高くて不快。
どろどろ濁った高温の空気の中にはそれでもほんのすこし近付く秋の気配が混じっている。
時折吹く場違いに冷えた風だとかやけに耳に残る虫の音だとか薄くなる土と草の匂いとか、そんなもの。
暑いのは苦手だ。
自分がそうだから、世の中に夏になると生き生きしてくる人間が存在するってのは、昔っから不思議で不思議で仕方がない。
大体俺はいつだって自分のことしかわからなくて他人のことなんか憶測の範囲でしか理解のしようがないのだ。
俺以外の人間だってそうだろうけどね。
猿野ってのは俺にとってまさにその理解できない種類の人間てやつで、このくそ暑い中クーラーの効いた楽園でだらだら寝転がって麦茶飲みながらテレビのチャンネルを10秒おきくらいに変えてた俺を、蒸し風呂みたいな屋外に引きずり出した悪魔だ。
もっとも俺と猿野が知り合ってからはもう2年とすこし経つはずで、その間巡った季節はここのつくらいで、どんな季節にだってあいつは元気を持て余してて、喧しく喚き散らしては走り回ってる。
汗で顔どころか全身をべたべたに濡らしては夏の白い太陽の下を、鼻の頭を赤くして目の縁に薄く涙を滲ませあまつさえ鼻水なんか垂らしながら空気も凍るような灰色の下を。
どっかおかしいんじゃねえかとすら俺にはおもえる。
温度感じる器官とかちゃんとあんのか。
皮膚では感じてても、脳味噌にまで届いてねえんじゃねえのか。
あいつ頭軽いもんな、在り得るかもしんねえ。
地べたに座り込んだまんまハーフパンツのポケット探って、途中の駄菓子屋で猿野に奢らせた10円のガムを取り出した。
当たりつきの青りんご味のガムは今口の中にあるのと同じやつ。
もう甘味なんかとっくになくなった口内のを伸びきった草薮の中に吐き出して、新しい包みを開けた。
包み紙の裏の文字は薄くて、持ち上げて何度も角度を変えてみたけど遠くの街燈と星明りだけじゃ読めなかった。
当たりだったらあとで猿野にでもくれてやることにして、一応ポケットに突っ込んだ。
元値が5000円の花火は小学生のプールバッグみたいな黄色と透明のぺかぺかくっつくビニィルの袋に入ってて、自転車の前籠には入らないくらいでかかった。
それを猿野は両手で抱えて、手が塞がったからって自転車の運転を俺に押し付けた。
その謝礼が10円のガムが10個、つまり100円分だっていうんだから大概莫迦にしてやがる。
置物みたいなちっこい婆ちゃんがひとりでやってる、天然記念物に指定したほうがよさそうな駄菓子屋は、花火を買った国道沿いのマーケットから狭い路地を1本入ったところ。
流行の斜めドラム洗濯機を連想させる透明なプラスティックの容器の中から無造作に取り出したガムを猿野はきちんと10個数えて剥製かとおもうくらい動かない店主のとこへ持ってって、銀色の硬貨1枚と交換してた。
消費税とかそういうのはないのか。
時間に取り残された店。
パジャマ兼用、洗いすぎて色の褪せた俺のハーフパンツの右ポケットには夏の大会が終わってからすこしだけ量の増えた煙草用の100円ライターといっしょにガムが10個詰め込まれた。
メンソールの緑のパッケージが入ってることの多い左のポケットは今は空っぽ。
残り2本ほどになってたそれは俺の部屋の寝転がってたテレビの前に落ちてる筈だ。
大体猿野は副流煙を気にして、俺に限らず煙草を吸う人間が気に入らないみたいだ。
肺悪くするんだったらてめえひとりで悪くしてろよな、と遠慮も何もない云いかたされた。
凪さんと結婚して末永く幸せに暮らすんだから俺はぜってえ長生きするんだと拳を握り締めて奴は云った。
俺が先に死んじまったら残される凪さんが可哀相だから絶対に凪さんより1分1秒だって長生きしてやるんだとよ。
それも夢見がちな話。
その猿野はまだ花火の死骸を片付けている、恐らく。
ちゃぷちゃぷとオイルの揺れるライターは青く透けたプラスティックに、細かい銀色のラメ入り。
最初にそれで火を点けたのは、黄色とか水玉とかゴシック体の文字とかが印刷されたありがちな手持ち花火で、ありがちじゃなかったのは猿野がそれを4本も5本も纏めて持ってたことくらい。
パッケージの裏面なんかに必ず書かれてるやっちゃいけない見本のイラストみたいに、猿野の手元からは狂ったみたいな勢いで火が噴出した。
最初は赤、緑、それから橙になって最後は金色に輝いた固形の火が、河原の石ころの上に音を立てて流れ落ちる。
色取り取りに染まる石は、すぐにまた闇の中。
右手から火花を滴らせる猿野は、左手に適当に抱えた火薬と紙の束の中からまたいくつか摘み出すと、塞がってるはずの右手に器用に持ち替えては火の塊の中に添えていく。
オレンジ色の炎の隣で、青い炎がぎらぎらひかり、猿野のシャツの上のミッキーマウスのプリントとか膝小僧とか頬とかを斑に染め上げる。
俺はそんな猿野を横目で見ながら自分の花火に火を点けるのに一生懸命。
袋からぐしゃぐしゃに引っ張り出されて投げ出された花火の束は地面にてんでばらばらに転がってて、自分のやるだけ分を抱え込んだ猿野はいいが俺はまずそれをいちいち拾い集めなくっちゃならない。
空の星屑のも土手の上にぽつりぽつりと並ぶ街燈も灯りとしてはあんまり心許なくって、猿野の手元で噴出す炎が何より明るいのだけれども、一時だってじっとしてない猿野はそれを全身全力でもって振り回してるから、流れる光線はちっともじっとしていない。
屈みこんで自分の右手の色の変わる炎を頼りに、半分手探りで花火を1本1本探しながら、さらに火を絶やさずに点け続けて行く事はなかなかに困難だった。
時折俺の火は絶えて、その度に駆けずり回る猿野のとこまで行ってはその手元から火を取った。
そこらじゅうが火薬臭くて白く煙って、息を吸い込むと肺の中まで白く濁りそう。
煙草の副流煙を嫌う猿野は、頬を赤くしたり青くしたり緑にしたり橙にしたりして、ときどき栗色したはずの髪の先が金色にひかった。
半額の花火セットは全部手持ち用ばっかりで、地面から派手に噴出すやつとか、やかましい音を立てて空に昇ってささやかな花を咲かす打ち上げとかは入っていなくて、猿野はすこしだけ不機嫌だった。
半額に浮かれてしまって確認をしなかったほうが悪いのだからまあ仕方がないと諦めはすぐについた。
その鬱憤でも晴らすみたいに纏めて掴んだ花火は、たった2人でやりきるにはどう見ても多そうだったのに、そのほとんどをあっという間に猿野が使い切ってしまった。
あっという間に使い切ってしまった2500円の内訳は、俺が1200円に猿野が1300円だからすこし不公平な気がしなくもない。
定価で買ってたら多分そんな勿体無くて傍若無人な遊び方はしなかっただろうか、そう考えてみたけれど、猿野だったら10000円分の花火だっておんなじように持てるだけ持っていっぺんに火をつけてしまうだろう。
めんどくせ、といった俺を罵倒付きで睨みつけてそれからついでに蹴っ飛ばすと、白い煙に咳き込みながら猿野は自分の撒き散らした花火の残骸を拾い集めた。
俺は薄ぼんやりと足元に見えた、多分自分のした分全部くらいの花火だけを雪駄の裏でおざなりに掻き集めて土手の上に登って、ガードレールに背中を預けている。
昼間の篭るみたいな熱気とか真っ白い太陽とかアスファルトの上ぎらぎらひかる逃げ水とかそれに映り込む枯れた合歓の花とかそんなのが全部嘘みたいに思えるくらい世界は紺色だ。
眼下の河原に花火の名残の煙はもうほとんど見えなくて、まるで暗い世界だけがどこまでも続いているみたいだ。
足元の草はつめたくて、剥き出しの脛に体温みたいに気持ち悪い感触の風に揺らされてぶつかるのがむず痒い。
暗い夜の中でも連なる屋根の影は一際濃い影で君臨し、夜空と溶け合うこともない。
星屑浮かぶ空はそれでも例えば天の川なんか流れちゃいないし、ばらばら無造作に散ったみたいなそれを集めて図形を描くほどの知識もない。
ほんとならそんなものには何の興味もないはずなのに、なんだか急に勿体無いような気分になってしまった。
きらきらひかる天球の底は、不愉快な大気がたゆたっていて、それは質量を持って、からだを捕らえて離さないような錯覚を覚える。
それは何か焦燥を伴う感覚。
真白い太陽が世界を支配していて身体中の脂肪が熱で溶け出しそうな時間はもうとっくに山の彼方。
暑いのは本当に大嫌いなのに何だかそれすらも惜しいような気が、する。
纏わりつく昼間の名残の熱気も、地表に纏わりつくような湿った空気の重さも、もう遠くなる。
始まる夜は、何時も朝へと向かう。
そんな当然のことが癪に障るなんて全くどうかしているけどもね。
猿野、でももしお前が望むンだったら、このまんまどっかへ。
安物のライターをてのひらから出しては、虚空に透かして見詰める。
微かな音を立てて揺れる液体はプラスティックの中の半分くらい。
手持ち無沙汰に点けたり消したりしてるせいなのか、減りが早い。
透明な液体の向うにも夜。
土手下から黒い影が駆け上がってきて、それは近付くにつれ徐徐に色彩を帯びて猿野の姿になった。
猿野はふうと一息吐くと、腰に手を当ててひっくり返りそうなくらい真上を向いた。
「きれえ」
猿野がそう云った、夏の終わる日。
サマーベイビーサマーダイ