初めて猿野を見たのは、赤い照明がちかちか瞬く薄暗い地下のライブハウス。
俺は今と変わらずオンナのとこと男の知り合いン家を7対3の割合くらいで渡り歩いてて、コンビニおでんのはんぺんにやたらハマって各店舗のを食べ比べてて、どっかに落っことした貰い物のクロスのペンダントがちょっと勿体無かったなんておもいながらときどきベースを弾いてて、そんで大体退屈だった。
空は灰色でオンナは何か理解できない単語ばっかりを呂律の回らない舌でもって吐き出して、俺が買って来たばっかりのおでんの入った白い発泡スチロールの容器をしゃかしゃかうるさい薄茶色の袋ごと俺に投げ付けた。
いつも汁物の汁は残して邪魔になってしまうから、その時もケースの中にはおでんの汁はすこししか入っていなくて、外は寒かったからそれは大分冷めてしまっていたけどおかげで俺は火傷を負わずに済んだから、もしかしたら幸運だったのかもしれない。
情けない音を立てて床に落ちた可哀相なはんぺんの白い塊を見て俺は財布の中の小銭の量のことを考えた。
なんか云えば。
マスカラでばちばちに固めた睫毛の向うで瞬きしない目でオンナが云うから、はんぺん代返せよって云ったらオンナはぼろぼろ泣き出した。
ファンデーションを塗った肌の頬骨のうえを丸い塩水の塊が滑っていって、それを拭おうともしないでなんで、とかどうして、とか云い始めたオンナの化粧は崩れる気配も見えなかった。コンビニに出てた格好のまんま、ジーンズの尻ポケットにはケータイと財布が入ってて俺はそのまんま部屋を出た。
俺たちが言い争ってた、というよりも昨夜まで宿を提供してくれてた、くるくるの人工巻き毛と細くてまっすぐの脚を持ったそのヒトが一方的に俺に何か捲くし立ててたのは小奇麗なワンルームマンションの一室の玄関先で、俺はまだ靴も脱いでなくって季節はもうすぐ街中が赤い服と白い髭のジジイで溢れかえる頃で、俺の身体は冷え切っていた。
誰かの部屋で寝泊りしてたときに勝手に借りて出てきたねずみ色のパーカーをおでんの汁でまだら模様にして、フードに首をうずめるみたいにして白い壁の長ったらしい横文字の建物の外階段を歩いてたらケータイがラムのラブソングを奏でた。
俺の趣味じゃなくてさっきのオンナが勝手に設定したやつだ、確か。
液晶ディスプレイに映る名前はスミレってなってて俺はほとんど無意識に通話ボタンを押してからほんのちょっとだけ後悔した。
さっきのオンナの完璧な泣き顔を思い出したからだ。
完璧ってのはどう見たって泣いてるとかそういう意味じゃなくてどの角度からも計算された美しい、と多分本人はおもってるだろう泣き顔、ってことだ。
オンナってのはみんな生まれついての女優なんだってよ。
一瞬の躊躇いの間にてのひらにおさまるちっちゃな電子機械はどこかの同じみたいな機械同士を目に見えない電波で繋いでスピーカーから音声にして発信した。
「もしもしバカラ?あれ、電波ない?」
耳に届いた声はすこし高めだったけど間違いなく男のものだったから、俺はなんとなくほっとして黒く塗装された機械を耳に押し当てた。
じゃらじゃら並んだピアスにぶつかっていちいち五月蝿い。
「つうか誰」
誰ってひでえんだけどー、俺傷付いちゃう、ちっとも傷付いてない口調で電話の相手は楽しそうに云った。
「スミレンだってスミレン、先週対バンで出たでしょ」
名前を聞いてもちっとも覚えのなかったそいつは駅の自動改札越しに俺に手を振って、銀色の硬貨を2枚くれてこれで精算して出といでよ、とちょっと気味悪いくらい笑いながら云った。
俺のパーカー前面に弾けた染みに一瞬視線を走らせて、さりげなく逸らしたのには俺だって気付いたけれど、面倒だから黙っていた。
見ず知らずの俺の為にたかだか200円といえよく金なんか出す気になるよなと考えて直ぐに、少なくとも一度は会ったことがあって向うは俺を覚えているらしいと思い直した。
200円の恩人は精算機から出てきた紙片で改札を通り抜けた俺に、気にしなくていいんだよォ投資だからねと、言葉とは裏腹に恩着せがましい口調で云って笑った。
表情が動くときにちょっとだけ下がる眉と根元に黒いところのない綺麗に脱色された髪の毛には確かに見覚えがあった、ような気がした。
大体ヒトの顔や名前を覚えるのはあんまり得意なほうじゃない。
野郎なんて特にね。
無数の靴底に踏み付けられて汚れきったオフホワイトのタイルの床の上、スポーツ新聞が並んだキオスクの前を通り抜けて、並んで駅を出た。
道行く通行人は寒さの所為か誰も彼も心なしか背中を丸めて、分厚いコートの茶とか黒とかくすんだ色彩の中をときどきピンクの水玉のマフラーとかオレンジ色の髪とか捲れたコートの中の緑色のシャツとかパーカーの首元からぶら下がった赤い紐だとかがほんのすこし彩る。
灰色のビルディングを、表面も見えないほど極彩色の看板や広告でけばけばしく飾り立て、その下を蠢くひとの群れは矮小だ。
にっこり微笑む胸を強調した制服姿のオンナノコのスチール写真の隣に、ぴちぴちとかおさわりとか直接的過ぎて欲求を刺激するのか効果は怪しいと俺にはおもえる言葉が並んだ道を通り抜けて、コンビニエンスストアの角をラーメン屋のあるほうに曲がると、そのあたりの他の店に比べると随分控えめな看板が出ていてそこが今日の目的地だ。
ポケットに突っ込んだ手をそのままに狭い階段を降りて顔見知りの店員に肩をすくめるだけの挨拶をした。
俺でもそれくらいの他人の識別は一応できる。
分厚い防音扉を、1歩前を歩く金髪っていうよりもほとんど白に近い頭が開けて、赤い光が視界を覆った。
「うわタイミングぴったり」
俺のほうが頭半分くらい背がでかいから、自然見下ろす形になる照明に照らされて赤くなった髪の天辺が、伸び上がるみたいにステージを覗き込んだ。
フロアに客は疎らで、そんなことしなくたってステージまでは障害物も少なくって視界は良好だ。
重たいドラムと波みたいにうねるベースと甲高いギターがゆっくりとアンプを通した音で狭い店内を満たす。
ステージ後方から赤い照明が瞬くから、中央に立つ人影はまだシルエットだけだ。
スタンドマイクを握り締めたその影が息を吸い込む気配。
次の瞬間響いた声に、空調の効いた狭い地下1階のライヴハウスのフロアの上、心臓を素手で掴まれたような感覚を覚えた。
思わず息をすることも忘れてしまうくらいだなんてそんなこと、何時まで経っても本人にはとても云えやしないけれど。
ステージの真ん中に立つのは多分俺と同い年くらいのオトコだ。
パーカーのフードを被ったまんまでマイクに唇を寄せて、棒立ちのまんまで唄う姿が、赤い光に照らし出される。
吐き出される声は艶やかですこしだけハスキィでどこか切なくて、そしてひどく心地良い、ような気がした。
鼓膜を震わせた空気の振動が脳に届く、ただそれだけのことなのに。
スポットライトに照らされて、頬の産毛が黄金色に輝く。
右手の中指に嵌まった指輪が鈍く光を跳ね返す。
赤い照明の中、擦り切れたジーンズと、フードに隠されて表情も見えないその姿は、いっそ神神しくさえも見えた。
あとから気付いたことだけど、俺はまるで白痴みたいに口を開けてそれに見入っていたらしい。
冷静になって考えてみると全くどうかしてたんじゃねえかと自分でもおもう。
吐き出された言葉はたったのひとつの単語も覚えていなくて、演ってたのがボブ・ディランのコピーだったって云われてもさっぱり思い出せなかった。
どれぐらい演奏していたのか、立ち尽くしたまんま時時顔を上下させる以外にはひとつも動かず声だけを狭いフロアに満たして、MCも無いままそのヴォーカリストはステージを降りた。
俺は馬鹿みたいに防音扉の傍で口を開けて立っていて、金髪の男に何度も袖を引かれて漸く覚醒した。
「どう、今の」
「どうって、」
スミレとかいう男は、また眉をすこしだけ下げて笑った。
「取り合えずなんか飲む?奢りだから安心してよ」
でも恩に着てねェ、とかふざけた事を付け加えた奴に、ビールと一言だけ返事を返し、俺はまたステージに視線を向けていた。
舞台は次の出演者達が機材を並べ替えている。
その場所についさっきまで立っていた男の姿は、目を閉じても瞼の裏に鮮明に映し出される。
赤い照明で焼かれた影絵のように。
透明で薄っぺらいプラスティックのコップに並並とビールを満たして戻ってきたスミレは、その片方を俺のポケットに突っ込んだ手ではなくて、まだおでんの汁で冷たいままのパーカーの胸に押し付けた。
見下ろした先ビールの泡をちょっとだけくっつけて濡れた唇は笑みの形をつくっていたけれど、真っ直ぐに俺を見上げた瞳はちっとも笑わずに、俺アイツとアンタと演りたいんだよねえ、と云った。
ノッキンオンヘブンズドア