北海道には梅雨ないってほんとだったら俺ちょっと北海道に住みてえなとおもいながらありがとうございましたあってやる気の薄い声を背中にファミリーマートの自動ドアを出て、傘立てから無造作に抜き出した誰のか知らないビニィル傘を広げた。
安物の傘の中でもいちばん値段ランクの低いであろうそれは透明のビニィル同士ぺかぺかくっついてしまっていて、開くのにだいぶ無駄な力が必要だった。
筋肉を使うと腕の内側に浮き出る血管を意識する。
薄青い色。
アスファルトは薄い水の膜が張られていて、俺はその上を歩く。
ポケットに突っ込んだ剥き出しの左腕にかけたいちばんちいさいサイズのビニィル袋の中身はカップヌードルシーフードとビタミンウォーターとチロルチョコの京きなこ味がふたつぶ。
今寝床借りてるスミレの部屋までは、ファミリーマートからまっすぐ歩いて銀行の角を曲がってラーメン屋とクリーニング屋を通り過ぎてすぐだ。
ほんのちょっと足下の悪い今日みたいな日でも、最寄りのコンビニであるファミリーマートから4分てとこだ。
ココア色の外壁がこの季節には重たく感じる鉄筋コンクリート4階建ての建物の最上階まで、外階段を登る。
コンクリートとスニーカーのゴム底の触れ合う音が、ぺたぺた響く。
2階程度ならちょっと諦めるけど3階以上だとエレベーターねえとめんどいななんて考えながら階段を登り切る。
外壁と同じ色のドアが均等に5枚並んだいちばん奥のその手前に、異物を見つけて俺は舌打ちをした。
俺の足音に気付いていないはずのないそのドアの前に蹲る迷惑な物体は、ドアに背を預けて俯いている。
とっくにわかってるけどそれは猿野だ。
鼠色の空から滲む淡いひかりが栗色の髪に遮られて、猿野の頬に影が落ちているけど、それは日光のせいばかりでもない。
薄青く見えるのは痣だ。
猿野を殴った。
のは俺だ。
1時間ほど前だ。
場所は駅裏のマーケットの調味料売り場だ。
買い物籠を提げていたのは猿野だ。
中身は特売の豆腐と納豆と牛乳と卵だった。
おうまだ残ってたよかったよかったと、栄養あるけど偏った食品をオレンジ色のプラスチック籠に放り込んで猿野は調味料売り場に向かった。
俺はただガム噛みながら猿野の後ろをのろのろ歩いていた。
平日の昼間の、白い蛍光灯が眩しすぎる店内の客の入りはそう多くもなくて、買い物籠をぶら下げて歩く猿野は俺を振り返りもせずさっさと歩いて、調味料の並ぶ棚の前で座り込んでマヨネーズを物色していた。
なあ御柳、カロリーハーフとふつうのとどっちいいとおもう?
両手に別々のマヨネーズをそれぞれ持って猿野は云った。
俺は答えた。
ふつうの。
えー、と猿野は顔を顰めて、でもやっぱカロリーハーフだろ、と左手に持ってた普通のマヨネーズを棚に戻して、カロリーハーフのマヨネーズを床に置いた籠に入れた。
値段はカロリーハーフのほうが30円高かった。
よっしこんだけでいいなー、と猿野が勢いをつけて立ち上がった。
そうすると遠かった猿野の日に焼けた横顔が不意に近付いて、俺は突然の衝動を感じた。
猿野を殴った。
左の頬だ。
衝動としかいいようがない。
猿野の頬にただ自分の拳をぶつけたくなっただけだ。
猿野の頬の熱を感じた。
ほんの一瞬のことだった。
けど、俺はそんとき妙に冷静で、猿野の背景に見える棚のソースやケチャップのパッケージや、オフホワイトの床に見える濡れた靴跡や、通路を歩く幼児を連れた若い母親の姿や、それから猿野の色落ちしたジーンズのポケットから覗くケータイに付けられた地域限定の目玉の親父のストラップなんかを同時に見ていて、それから猿野の顔が後ろに捩れて、首と身体がそれにつられてぐらりと傾くのを、見た。
転ぶかと思った猿野は2、3歩後ずさっただけでバランスを取り戻し、目と口を開けている。
間抜け面で俺を見ている。
目も口も丸い。
俺はただぼんやり猿野の日焼けした頬が俺のせいで薄赤くなったのを見るとはなしに眺めていて、猿野がやけにゆっくりした仕草でさっきまでカロリーハーフのマヨネーズ持ってた手でその部分を覆って、そんでやっと我に返った。
握り締めてたままの拳の内側で、あんまり長くしないように気をつけてる爪が手のひらの柔らかい肉に食い込んで痛かった。
猿野はただ俺の殴った頬をひとなでしてからその手を下ろして、黙っていた。
俺はそっち向いたまま半歩後ずさり、そんでそのまま踵を返し、早足でその場を立ち去った。
外から運び込まれる雨粒で濡れた床が靴底に張り付く気がした。
心臓の音が五月蝿い。
跳ねる臓器が皮膚を突き破って飛び出してきそうだった。
そんなことあるわけねえけど。
俺はそのままマーケットを出て地下道潜って駅前へ回った。
マーケットに入る前から降り続いていた細い雨はまだ止んでいなくて、タンクトップ1枚の肩が冷えてしまったが、腹のあたりはなんだか熱かった。
心音はまだやけに喧しく耳に響いた。
薄く水の溜まるアスファルトの上を歩いた。
ゴムの靴底が水を跳ねた。
猿野を殴った。
俺はそのまま駅前の本屋に入って、音楽誌を片っ端から眺めていった。
どっか外国の屋外イベントの写真、誰かの新譜のインタビュウ記事、復刻版ウッドベースの広告、は目に映るけど脳味噌まで入らない。
猿野。
機械的にページを捲る作業を繰り返す。
視線は紙の上を滑る。
単純作業は時に精神安定に有効なはずだ。
猿野。
猿野の顔がちらつく。
それでも心臓は普段のリズムを取り戻す。
俺が生きてる音。
そうして本屋を出て体温奪って乾きかけたタンクトップはまた濡れて俺はファミリーマートに入って今夜の食事を買ってスミレの部屋へ戻ったところで俺が殴ったその相手が俺を待ち伏せてたってわけだ。
猿野。
おまえそんなとこで何してんだよ。
猿野を殴った右拳はポケットの中だ。
ひり、とすこし痛んだような気がしたけれど、そんなのは勿論錯覚だ。
胃の辺りが重くなるような感覚がした、のを飲み込む。
猿野。
声に出した。
思いのほか低い声が出た。
間違いなく俺の存在にはとっくに気付いてたはずの猿野はそこで初めて顔を上げて俺を見た。
おう、と猿野は云った。
ついさっきまで薄赤かった、その前までは小麦色だった頬は、今は薄青い色。
まともに流れない血液の、澱んだ色。
玄関ドア前のコンクリートにくっつけてた尻の汚れを軽く叩き落としながら猿野は立ち上がって、あれおまえメシ買ってきたの、と俺の腕にぶら下がった白い袋に目を留めて云った。
おう、と今度は俺がほとんど無意識のうちに答えてからその意味を考えて単なる袋の中身の話だったのかと理解して、黙った。
猿野も黙った。
半袖を着た猿野の二の腕に、薄く鳥肌が立っているのが見えた。
猿野がすこし厚めの唇をゆっくり開こうとしてまた閉じて、今度こそはっきりと開いて、いつも心地よくすこしだけ掠れた甘い歌を吐き出すその声で、おまえどうしたんだよ、と云った。
おまえこそどうしたんだよ、おまえのほうがおかしいっしょ。
猿野は眉根を寄せて腕を組み、俺よりすこし低い視線をさらに低くして下からわざとらしく俺のこと覗き込むように顔中じろじろ見回して、おまえちょっとだいじょうぶか、と云った。
だいじょうぶじゃねえかもな。
デイドリームアフター