逃げ水が煌めく干乾びたアスファルトの上を排気ガス撒き散らしながらクルマが走っていって、こいつらが地球温暖化の原因なんだよっておもったりしてたら、隣を歩く猿野が京都議定書!と叫んだ。
おまえそれ違わなくはないけどやっぱ違えっしょ。
おもったけどめんどくさくて黙ってたら猿野が何かを期待するような目で俺のこと見てて、たっぷり5秒ほど迷ってから、おまえよくそんな単語知ってたなって云ったら、馬鹿にすんじゃねーよ!と猿野の拳が軽く俺の頬へ。
俺のかいた汗で滑ったそれを猿野はうわばっちいと云って俺の穿いてるハーフパンツの裾あたりでごしごし拭った。
暑さで茹だった俺の脳味噌で弾き出した回答は不正解だったらしい。
おまえマジめんどくせーよ。
今度は即答したら猿野の黒白ドット柄コンバースの爪先が俺の剥き出しの左脛へ。
甘んじて受け入れてやったけど猿野はまだちょっと不満そうにふんと鼻を鳴らした。
俺は汗で湿る右手で、蹴られた脛を軽くひと撫でする。
べったりした体液の不快感、と、それが蒸発していくほんのすこしの清涼感。
左手は、猿野の右手と帆布製のボストンバッグひとつを介して繋がっている。
ほとんど衣類だけの荷物はあんまり重くない。
のどかわいたあ、と猿野が云って、俺の尻ポケットから伊右衛門の500ミリリットルペットボトルを抜き出してわざとらしいくらいでかく喉を鳴らしてその音のわりにはあんまり量変わってないように見えるくらいたぶん結構遠慮して、ひとくち飲んでまた同じところに押し込んだ。
汗がうすくひかる猿野の喉仏の向こうの景色は、緑と青でくっきり二分されている。
俺達の、世界。
北海道がいいと主張したのは俺のほうだった。
高校生活最後の夏休み、野郎ふたりで旅行して何が楽しいンだよ気持ち悪ィって云ったたのも俺のほうだ。
俺地平線って初めて見たぜってはしゃいで見せたのは猿野のほうだ。
今ここでこうしてる責任がどっちにあるのかは微妙なところだ。
空はペンキで塗ったみたいに青くて、太陽はほとんど真上で、道は乾いていて前にも後ろにもまっすぐで、ときどき通る車はエンジン音と排気ガスだけを残して走り去っていく。
見渡す限り緑色の大地の真ん中を切り裂く白い道ってのはなかなか結構な眺めだと、俺だっておもう。
でも残念なことに、人間ってのはどんな物事にでもそこそこ慣れちまうようにできてんだな。
感動ってのはそうそう長く続くモンじゃねえよな。
俺は猿野に気付かれないように細心の注意を払いながら、細く長く溜息を吐き出した。
おい猿野、ねっちゅうしょうって知ってるか。
ちょっと油断するとすぐに出しそうになる無駄口を必死で堪えて俺は歩く。
暑いだの疲れただのだるいだのめんどくさいだのそんなことうっかり口走ってしまったが最後、無駄に体力だけはある猿野の口からは俺が出した単語の数十倍の言葉が大声で発せられるのは間違いないってことを、俺は嫌って程知ってるし、つい数分前にも改めて確認させられたばかりだ。
つうか俺も懲りねえな。
そんな俺ってちょっとかわいくね?
そう云ったらたぶん猿野は、白白しく作った冷たい眼で俺の顔一瞥してわざとらしく肩を落としてでも見せるだろうと、おもう。
猿野は地平線の向こうから車の屋根が太陽光を反射させて瞬くのをいちはやく見つけては、過剰な動きで自己主張をしてみせる。
まだ豆粒みたいにしか見えない白や黒やらの塊に向かっておおきく手を振っては荷物を俺ひとりに押しつけ駆け寄り、飛び跳ねる。
時速50キロメートル程度で走る金属のカタマリはどうしてかというかやっぱりというかとにかくスピード緩めることなく、運転手はそれでも誰も彼もちょっと不審気な目付きで俺たちふたりに視線を一瞬向けては白い道の彼方へ。
猿野はだあとかがあとか一言二言喚いた。
こめかみのあたりからよく焼けた頬に向けて、新しい汗がひとすじ滑るのが見えた。
さすが北海道はでっかいどうだぜ、札幌空港に降り立った次の瞬間に猿野の発した、どこの誰が言い出したのかわからないお決まりの言葉を俺は今実感している。
歩いても歩いても風景が変わってる気がしねえよ。
青い空は南のほうで俺たちの住む埼玉とも繋がっている。
ハーフパンツのもういっこのポケットには財布とケータイとiPod。
手荷物はふたりでぶらさげた鞄ひとつきりで、ちょっとだけ駆け落ちみたいだと考えてみて、すぐにやめた。
どこにだって行ける気がした。なんてな。
北へ向かうのは逃避行の定番だけど、それにしちゃ明るすぎる空も温度の高すぎる空気も、肌を刺す日光の刺激も、まったくもってそぐわない。
湿度の低さだけが、本州との違いを感じさせる気がする。
8月の真ん中よりほんのすこしだけ手前の日。
猿野と俺は北海道のとりあえず見える範囲はまっすぐな道の上で、見渡す限り人家もコンビニもそれどころか人工建造物も見当たらないだだっぴろい野原で、頭上には空と雲とまっしろな太陽を、乗っけて歩いている。
行き先は稚内らしい。
北に向かってきゃそのうち着くンだよあったりめーじゃねーか!
自信満満でふんぞり返った猿野を止める人間は俺しかいなかったのだからやっぱ俺が苦言を呈してやるべきだったんじゃないだろうか。
という反省と後悔は、今となってはあまりにも遅すぎる。
猿野は歩いている。
いつの間にか歌を口ずさんでいる。
俺の知らない歌。
明るいメロディ。
聞き取れた歌詞の中で、外は晴れた風のない夜だったってのにちょっとだけ苛ついた。
俺たちは今炎天下の外にいて、風はないけどここは真昼で、そんでもってどうしようもなく暑かった。
首の力を抜いて空を見上げる。
足は惰性で動いて、隣を歩く猿野と鞄越しに繋がった左手が進行方向に引っ張られる。
御柳てめしゃきっと歩けよ。
歩いてんじゃねえかよ。
しゃきっとしてねえよしゃきっと。
猿野がまっすぐな道走ってく車を、拝むような手真似でなんとか停車させることに成功したのは、日陰のない道を歩いてる俺たちの足から伸びる影がだいぶ長くなってからのことだ。
助かりましたあ、と助手席に座る猿野は笑った。
運転する俺たちの母親よりちょっと若いくらいのおばちゃんは、あらあらいいのよう、ってこっちも笑っている、のがバックミラーに反射して後部座席に鞄と一緒に座る俺にも見える。
でもずっと誰も乗せてくれなかったらどうするつもりだったの?
いやあどうしますかねえ野宿でもへーきかなあって。
あらあらあ。
あらあらじゃねえよ。
と俺は云いたかったが勿論そんなこと云えるわけなんかない。
黙ったまんまでガラス窓の外流れる景色を、見るともなしに眺めている。
草むら、立ち木、電信柱が、残像を残して後方へ。
エアコンの効いた車内で、さっきまでかいたぶんの汗が冷やされる。
わきの下や膝の裏がつめたい。
へえ、アマクニくんたち高校生なの、部活とかやってるの?
いい質問ですね俺たち高校球児っすよ!
俺もこいつも甲子園出たことあるんですよ!
十二支高校です!
猿野が自慢げに声を張った。
あらあすごいわねえ、うちの下の子も野球やってるのよう、小学生なんだけど。
おばさんはにこにこしている。
すこし乾燥した髪が猿野のほうに視線を向けるたびに跳ねる。
俺の身体は車の振動で、他人の家の匂いがするシイトに細かく浮き沈みさせられる。
ポジションどこっすか!サード!俺もこいつもサードなんですよ!
猿野は俺たちがべつべつの学校の生徒だってことを云ってない。
この会話の中ではそれって結構重要な情報なんじゃねえのか?
どうでもいいことだけどな。
猿野の声はいつでもだいたい弾んでいる。
だいたいってのは、喚いてるとき以外ってことだ。
窓の外、無数の線になって流れていく景色はいくら眺めてても代わり映えしない緑と青で、俺はとっくに飽きてしまって、目を閉じた。
猿野の声が聞こえる。
絶望に似ていた