珍しく猿野からの電話で呼び出されて向かったのは、駅から猿野の自宅に向かう途中にある公園だった。 必ず制服で来るように、と幾度も繰り返されて、休日だというのに暑苦しい制服に身を包んで電車に乗った。 晩夏の日差しはまだ強く、歩けば汗が零れる。 汗で張り付いた開襟シャツが少しだけ温度を下げ始めた風に剥がされ、冷たい。 指定された公園は日曜日の昼間だというのに人影は疎らで、木立に囲まれているせいで町の喧騒とは一線を画す。 猿野はブランコを囲む柵に腰掛けていて、近付く御柳に気付くと右手を上げて挨拶しようとして途中で止めた。 錆だらけの黄色い柵に腰掛けた膝には花畑の描かれた丸い缶が乗っていて、それは猿野が持つにはなんだか不似合いなように感じた。 ブランコの向こうには鮮やかなフラミンゴ色を残しながら茶色く枯れた合歓の花が咲いていた。

「早かったな」 猿野は御柳の顔を見ずにそう言って、膝の上の平たい缶を持ち直すと立ち上がった。 制服で来い、と指定したとおりに猿野も黒い学生服のズボンとシャツで、そういえば夏休みに入って以来こんな姿の猿野を見るのは久しぶりだったと気付く。

温い風が吹き抜けて周囲の木立がざわざわと騒いだ。 人の乗っていないペンキの剥げたブランコが僅かに揺れる。 「で、何」 御柳に背を向け、猿野は公園の隅へと足を進める。 公園の真中では石造りの噴水が陽光に煌く水を吐き出し、それを取り囲む花壇では不釣合いに巨大な朱と黄のかんながけばけばしく咲き立てている。 足を動かせば白い砂利がスニーカーの下で鳴いた。 猿野は無言で歩き続け、御柳は仕方なくその後に続く。 半歩前を歩く猿野の首や腕は健康的に日に焼けていて、夏という時間の経過を実感させる。 ちいさな缶を両手で大事そうに持ち上げて、傾けないように慎重に歩いているような猿野は、狭い公園をほぼ一直線に横切り、1本の百日紅の下で歩みを止めて漸く振り向いた。

明るかった日向から少し薄暗い木陰に入った所為で視界はうっすら翠がかり、はっきりしない。 コントラストの強い夏の光が頭上に重なった葉の隙間から零れ落ち、猿野の顔に影を落としていた。 黒い影が頬を流れて、それは見ようによっては泪のようにも思えた。 すこしささくれの出来た指先で猿野は桃色と鶯色の缶の蓋を開ける。 音もなく開いたその缶の底には白地に紺の細かい格子の入ったハンカチが敷かれ、その上には何か朱いものが鎮座していた。 瞳を少し瞬かせ、焦点を合わせると、漸くそのものの正体を知る。

「きんぎょ、」

猿野は御柳の顔を見上げて、視線を逸らさないまま首を縦に振った。 唇を引き絞ったままの猿野はまた百日紅に向き直り、その根元へと蹲った。 缶を静かに脇に置き、少年らしくすこし筋張った指先で猿野は土を掘る。 三つ葉や露草やおおばこや、それから小石に蝉の抜け殻に散った百日紅の花が散らばる黒い土は、日陰なので僅かに湿っているようだ。 思いの外柔らかいらしい土の中に、あっという間に金魚の墓穴は出来上がった。 木漏れ日が落ちて猿野のてのひらには斑の影が出来、その中で湿った土や混じった小石がちかりと小さな光を放った。 猿野はそれを両手をぱんぱんと乾いた音を立てて叩き合わせて大まかに払い落とし、残ったものは学生服の太腿に擦りつけて拭った。 それでも桜色の爪の間には細かい土が入り込んで、まだ猿野の指を汚している。 それを綺麗にしてやりたいような気がしたけれど、掘った土をまた被せるのだから今は意味が無いだろう。 猿野は、地面に置いた缶の中から金魚の死骸だけを両手でそっと取り出すと、掘ったばかりの穴の中に置いた。 穴の横に積み上げた土を少しずつ掬ってその上に掛けていく。 朱い金魚は白い腹を見せてぐたりと横たわり、直ぐに土に隠れて見えなくなった。 一連の作業は無言のまま行われ、台本でもあるかのように滞りなく進んだ。 掘り起こした土を最後のひと掴みまで元に戻すと、ぐるりと首を回して御柳からは死角になる腰の後ろから何かを拾い上げた。 それはまわりに落ちていた石よりふた周りほど大きな楕円形をした黄土色の石で、地面に触れていた部分だけが半分湿って珈琲色になっていた。 猿野が掘り起こした場所だけは土が変色し細かな雑草も無い。 その上に楕円の石を半分埋め込むように置き、猿野は両手を今度は付着した土もそのままに、合わせた。


その金魚には見覚えがあったと思う。 正直なところ、金魚なんてどれも同じに見えて見分けなんて付きはしないから本当のところどうなのかはわからないが。 夏休みの丁度真中、お盆の頃にふたりで行った御柳の町内での夏祭りの夜に紅と蒼の暖簾の下で、いくつポイを渡されても1匹も掬うことなく、張られた和紙を破いてしまう猿野に代わって掬ってやった金魚だ。 藍色の絣の浴衣の袂を左手で抑え、眉間に皺を寄せて見た事無いくらい真剣な様子で金魚の品定めをする猿野に思わず苦笑した。 百円玉を2枚渡して恰幅のいい店の親父からからポイを受け取ると、斜めにそれを水面に差し入れ、これと定めた金魚の下に潜り込ませて、また水面とは斜めに引き上げる。 御柳はそうやって器用に金魚を1匹、また1匹と掬い上げて、鈍い銀色のボウルの中に落としていった。 猿野は目玉を落としそうなほどに見開いて、その手元を凝視していた。 7匹目を掬い上げようとしたときに、ぱしゃりと跳ねた黒い出目金が音も無く破れた和紙の中央から逃げ出した。 猿野は一瞬残念そうな顔をした後、中腰で水槽に手を掛けたまま、同じ姿勢の御柳を見て、別に羨ましくなんか無いからな!とそれはそれは羨ましそうに言った。 5匹の朱い和金と、1匹の黒い出目金の中から、元気のよさそうな動きの速い和金を1匹と出目金だけを残し、後は水槽へ戻した。 細い糸のような水草が2本と、金魚が2匹入った三角形のビニィル袋を、蛍光ピンクの紐を摘んで目の高さに持ち上げて、ちゃんと世話出来んのかなあ、と猿野は何度も繰り返した。 通りを1本挟んだ向こうの広場では、スピーカーから音の割れた旋律と祭囃子が流れ、隣の屋台では学童野球のユニフォームに身を包んだ少年たちが歓声を上げて射的に興じていた。 酷く暑い夜だった。


猿野は目を閉じ、手を合わせていて、所在無く立っていた御柳もなんとなくそれを真似る。 そういえばここは木が多いというのに蝉の声がしないなんてあまり関係の無いことを考えた。

目を開けてみれば猿野は先程と変わらぬ体勢のままで、御柳は手持ち無沙汰に頭の上を見上げる。 百日紅の上に覆い被さるように、幾重にも重なった鋸歯を持つ欅の葉の隙間から、あの日の金魚すくいの水槽みたいな蒼い空が見下ろしていた。 不意に勢い良く立ち上がった猿野は振り向き、 「オシマイ」 と呟いた。 泣いているのかと思った鳶色の瞳は乾いていて、唇は笑みの形を作っていたが、それはやはり笑顔とは言わないだろう。 強い風が吹いて、百日紅の木から花を無数にもぎ取った。 猿野の髪が舞い上がり、他の肌に比べて白い額が露わになった。 栗色の髪には百日紅の花がいくつか絡みついている。 薄く肌が透けるシャツの肩には百日紅の花がいくつか乗っている。 猿野は両手を擦り合わせて土を落としている。 肩の上の百日紅がふるふると震え、ひとつ地面へと落下した。 切り揃えられた爪と皮膚の境目に、土に混じって朱が覗いていた。 「手、」 自分の手を差し出し、御柳は促す。 猿野は首を傾げ自分の手と御柳の手とそれから顔を順番に見比べ、汚れた右手を御柳に向けた。 「そっちじゃなくて、」 土が付くのも構わずに、その左手を取ると薬指を咥えた。 「うわっ、汚ねえって」 猿野は身じろいだが、御柳は動じずに指の土を舐め取る。 土に塗れた指は苦く、砂粒は口の中でじゃりりと不快な感触を残す。 丁寧に舌を這わせて、離した猿野の薬指は、御柳の唾液に濡れて光り、残りの9本の指とは見違えて美しくなった。 口内に残った土を唾とともに地面に吐き、吐き出せなかったものはそのまま飲み込んだ。 細かい石の粒が食道を滑り落ちていく。 指先に薄く滲んだ猿野の血液は、御柳の唾液に溶けて広がっている。 猿野はそれに気付くと今度は自分で口に含んだ。

「俺も、夏に死ぬから」 指先のほんの先端だけを唇に隠したまま、猿野は言葉を零した。 「なんで」 さわさわと頭上でまた百日紅がざわめき、土の上に置かれたままだった缶の蓋の裏で、真鍮色がきらりと陽光を反射した。 百日紅は次次と散る。 紅い雪のように百日紅は止め処なく降りそそぐ。 「百日紅すきだから」 猿野は百日紅を見上げた。 咽仏の浮き上がった首が曝される。 御柳は百日紅を見上げた。 強すぎる日差しの所為で百日紅の花は陰になり、紅さは失われる。


「それってさるだからか、」 滑らかな駱駝色の幹はしゅるりと天に向かい、満開をとうに過ぎた花は散るばかりだ。 漸く指を唇から出すと、関係ねえよばあか、と猿野は言い、腰を屈めて缶と蓋とを拾った。 「来年、また来るか」 御柳がそう言うと、猿野は頷き、もう一度百日紅を見上げた。 来年の夏には小石ひとつが目印の、ちっぽけな金魚の墓の正確な場所など分からなくなっているだろう。 土葬にした金魚は直ぐに腐り、植物のための養分となってその辺の白詰草や昼顔や名前も知らない白い花や、もしかしたら百日紅にも吸収されるかもしれない。

猿野の左薬指の出血はもう止まっていて、熱い空気に唾液も蒸発してしまっていた。 今年の夏はもう終わる。

「サヨナラ」