アルミサッシの向こう側に取り付けた物干竿に揺れるのは右から順番に、タオルが5枚にタンクトップ2枚、Tシャツ1枚にジーンズ1本、ワンピースが1枚にそれから靴下やボクサーショーツのぶら下がったハンガーまとめて1本。 わたしの下着がないのは、女の子のものこんなとこ干しちゃだめだ危ないから、って猿野くんが怖い顔をするからで、いつも室内干しのわたしの下着はほんとはちょっとだけ黴臭い。 1日分の洗濯物越しに見上げる空は、今日もよく晴れている。 木造2階建て築20年は建っているだろうおんぼろアパートの2階の真ん中、決してワンルームなんて洒落たものじゃない6畳1間の、わたしたちの城。

猿野くんと御柳くんに拾われたのは、例年より幾分涼しく過ごしやすかった去年の夏が終わる頃だ。 ひと晩だけ泊めてもらうつもりだったのに、季節は移ろい同じ夏を迎えようとしている今、わたしはそのまま居着いてしまっている。 そもそもの切っ掛けだった友達との些細な喧嘩は、部屋着のワンピースに御柳くんが貸してくれたライムグリーンのパーカーを羽織ったすこし妙な格好で行ったバイト先のスーパーマーケット内の花屋さんで、突然訪れた彼女のごめんという言葉と共に差し出されたモロゾフのチーズケーキであっさりと終結した。 わたしのお昼の休憩時間を待って、自動販売機と安っぽいベンチの並んだ休憩コーナーでホールのままのそれをプラスティックのスプーンでふたりでつつきあいながら、それで昨日はどこに泊まったのと訊かれて友達のところと答えると、分かってると言わんばかりの笑みを上がった口角に乗せて、それってオトコでしょう檜もやるねえいつの間にそんなのいたのあたし全然知らなかった水臭いなあ、とからかうような調子でチーズケーキの乗ったスプーンの先で行儀悪くわたしを指した。 男の子だけどただの友達といっていいかさえビミョウな昔の同級生なの、そう言ったところでたぶん信じてはもらえないに決まってるのだからわたしは高校のときの友達に偶然会ったから、と嘘でも本当でもない曖昧な返答をしてごまかした。 いいけどさあ、それにしても檜がねえ、とにやにやしながら物わかりよく勘違いのまま納得しているらしい姿に、説明することは最初から諦めて、テキストや筆記具や化粧ポーチの入った通学用の鞄ごと財布とケータイを届けてくれた礼を伝える。 んじゃあたしもバイトだからと慌ただしく去って行く後ろ姿に手を振り、半日ぶりにわたしの元に戻ってきたケータイを開くと、液晶ディスプレイには自分で撮った猫神様の画像を背景に、メールの到着を通知するメッセージと共に時計が13時19分を示している。 午後の労働はあと3時間ほど。

今朝猿野くんに送ってもらって別れたその場所に、朝乗せてもらったのと同じ車が泊まっている。 スカイブルーの大きな車体は、夕暮れ前のまだあかるい光の下でその空の色を凝縮したカタマリみたいだ。 学生向けアパートの立ち並ぶその一角で、その車はとても目立っている。 多分、その中に居る人物も込みでだ。 運転席の黒いビニールレザーのシートにだらりと全身を預け、全開にした窓から長い腕を車外に落として、天井を仰ぎだらしなく口を開けて眠っているその姿。 切れ長で黒目がちの印象的な瞳は閉じられているけれど、その造作が整っていることを女という生き物は瞬時かつ正確に見極めるものだ。 ねね、あのヒトかっこいいねー、寝顔間抜けだけど、なんて、脇を通り抜けるピンクのスカートの裾をふわふわ揺らした女の子とすらりとした形のいい脚をショートパンツから無造作に晒した女の子が言いあっている。 車道を渡り、わたしのあまり大きくない声でも会話が可能だろう距離まで近付いて、女の子たちが間抜け顔だと言ったほんとうの理由に気がついた。 ぽかんと開いた口の端からは涎が一筋垂れている。
「これは間抜けかも」
ほとんど無意識に出た言葉と同時に、閉じられていた両の瞼がぱちりと開いた。 薄い皮膚の下から現れる黒い瞳。 真っ直ぐにこっちを見つめるそれにぎょっとして一歩後ずさろうとするより早く、車内から薄く汗を乗せた腕が伸びて来て、わたしの両肩を掴む。
「間抜けっててめいい度胸してんじゃねーか」
掴まれた肩を大袈裟に揺らされ、びっくりして目を見開き口も訊けないでいると、すぐに拘束は解かれる。
「ンなびびんなよユーカイでもしようとしてるみたい気分なってくるっしょ、」
ほら乗れよ、アホが飯おごるとか滅多にねーんだからアホの気が変わらんうちに行くぞ。 御柳くんが汗を浮かせたまんまの剥き出しの腕を伸ばして、車内から助手席のドアを開けてくれる。 昨日も、今朝だってわたしのために開かれたその空色にぴかぴかひかる扉は、わたしにとってちょっとだけ未知の世界へ繋がっている、ような気がする。 まるでどこでもドアみたい、なんてこどもじみたことを連想した。 革張りのシートは大きくてふわふわで、すこし香ばしいような匂いがする。 たぶん日光に炙られていたせい。 夏の、昼間の匂い。 エンジンをかける御柳くんの横顔を盗み見る。 尖った鼻の先、無防備に日光に晒されているくせにあまり焼けない象牙色の頬、黒い瞳を縁取る案外長い睫毛。 綺麗な部品で作られた同い年の男の子。 口は悪くて意地も悪くてすこし怖いけれど、たぶん、その時もうとっくに、わたしにとって御柳くんも特別だった。 ハンドルに添えられた左手にはシルバーのリング、ギアに掛けられた右手首には数珠とショッキングピンクのゴムのブレスレット。 カーステレオからは、今日も昨日と同じどこか物悲しい歌声。 涅槃を意味するこのバンドの名前を覚えたのは、今朝のことだった。 全開のままの窓からは温い空気が流れ込み、汗ばむ肌を快くくすぐる。 狭い道を窮屈そうに走る車はやがて大通りに出る。 日暮れまではまだ遠く、熱の残る道は帰路を急ぐ自動車の群れ。 御柳くんは、流れる少し音の割れたメロディーに合わせて鼻歌を口ずさみ、わたしはそれにぼんやりと耳を傾ける。 高度を下げかけた太陽を背に、向かう先は猿野くんのところ。

ありがとうございましたあ! おおきく一礼し、給油を済ませた白い軽トラックを送り出した赤いツナギ姿の猿野くんはそのまま、洗車機の前でホースとブラシによる手荒い洗車、というよりほとんど水遊びみたいに好き勝手に水道水を巻き散らかしているだけ、の御柳くんと、いつのまにか膝から下をびっしょり濡らしてしまっているわたしのところへ駆け寄ってくる。
「くそ、何楽しそうなことしてんやがんだ愚民ども俺も混ぜろ」
コンクリートの地面の上でとぐろを巻いたゴムホースの1本を手に、勢いよく壁に取り付けられた蛇口を捻るといくらかのタイムラグの後、猿野くんの手元から一気に水が噴き出す。 明らかに車ではなく御柳くんのほうを向いていたそれに、御柳くんは避けようともせず逆に自分の持っていたホースを向ける。 親指と人差し指でひらたく押し潰されたホースの口から飛び出した水は、まっすぐ猿野くんの顔へ向かう。 つめてー!きもちいー! びしょ濡れの頭を犬みたいにぶるぶる降って水飛沫を飛ばしながら笑う猿野くんのホースからも、同じように水が迸っている。 ビーチサンダルの足をびしょびしょに濡らして、御柳くんはわたしにもホースを向ける。 猿野くんに向けたのよりはだいぶ遠慮して、勢いを弱め、わたしの足元のすこしひび割れたコンクリートに向けて。 ちいさく左右に振られるそれは蛇行するようにわたしの足下で跳ね回り、避けようとわたしの足は地団駄を踏むように足を上下させる。
「ふはは踊れ踊れ」
猿野くんが作ったおどろおどろしい声でいい、御柳くんは意地悪く片頬を歪めている。 わたしは数歩分離れていた猿野くんの元へ、水溜まりを飛び越えるように跳ねて進むと、その背に隠れる。 うわ、と聞こえた猿野くんの赤いツナギの正面はもうとっくにびしょ濡れだけど、乾いた背中のまわりは暖かい。 汗とガソリンの匂いが鼻孔をついたけれど、それは決して不愉快なものじゃなかった。 わたしはそのまま猿野くんの背中から回り込むように右手を前に回し、猿野くんの右手を取る、ホースごと。 水滴で濡れた猿野くんの手は触れた瞬間は冷たかったけれど、すぐにその体温をわたしに伝えてくる。 そのまま地面を向いていたホースを御柳くんに向ける。 勿論その口は親指と人差し指で潰して。 途端に勢いを増した水は一直線に御柳くんへと向かう。 カラーリングですこし毛先の傷んだ髪に覆われた頭部目掛けて発射された水は、ばしゃばしゃと派手な音を立てて御柳くんの髪を濡らし、わたしの頭上では猿野くんの笑い声が弾ける。 よっしゃよくやったぞ猫湖! ふたつの右手で支えられたホースの口は御柳くんに向かい続け、タンクトップを肌に張り付かせた御柳くんは二の腕で顔を拭う。 濡れた前髪は掻き上げられ、額があらわになる。 印象の変わった顔でてめえこの、と言った御柳くんは今度は遠慮なくわたし、といっても猿野くんの背に隠れているからやっぱり猿野くんに向けてホースの水を発射する。 猿野くんはやだーん水も滴りすぎるいい男だわーんとわざとらしいしなを作り、盾になってくれているその陰では、わたしの髪も頬も腕も借り物のパーカーも飛んだ飛沫で薄く湿っている。 くすくすといつのまにか声を立てて笑っていたわたしに気付いたのは御柳くんで、切れ長の黒い目をちょっとだけ見開いて、それから嘘みたいに綺麗にほんの一瞬だけ微笑んで見せた。 あんまりやさしい顔にわたしはびっくりして急に恥ずかしくなってしまって、慌ててすこし俯く。 ばちゃばちゃと水が跳ねる、足下一面は水溜まり。 わたしの右手は猿野くんが動かすまんまに御柳くんを追い掛け上下左右に振られる。 飛び散る水滴のひとつひとつに、ちいさな虹がひかって、煌めいて。 御柳くんはコンクリートの壁に近付き蛇口を捻る。 僅かに間をおいて水は勢いを弱めて行き、そして直に止まった。 わたしと猿野くんが持っていたものも、御柳くんが持っていたものも。 もう終わりかよつまんねーの、と言った猿野くんに、はっと気付いて慌ててホースを離す。 猿野くんの手ごと。
「お前仕事着濡らしていいんかよ」
濡れた腕を手のひらで拭いながら言う御柳くんに、猿野くんはおまえがやったんだろうがボケと返す。
「大体ヒトの職場で何勝手に遊んでんだよ水だってタダじゃねーんだぞ」
「店長さんがいいっつった」
な、と御柳くんがわたしにふるから、わたしもうんと頷く。 スカイブルーの車を停車させ、ねー車洗っていいっすかと声を掛けた御柳くんに、御柳くんとも顔見知りになってしまっているらしい、猿野くんの上司ってことになる丁度わたしたちの父親くらいの年齢であろう穏やかな笑顔のガソリンスタンドの店長さんは、いいよいいよと快諾してブラシどころか洗剤とワックスまで貸してくれたうえに、わたしと御柳くんに自動販売機から缶コーラまで買ってくれた。 タダだと一層うめーなと言いながら御柳くんは一気飲みしちいさくげっぷをして、わたしも喉でしゅわしゅわと音を立てる褐色の炭酸水をすこしづつ飲み干した。 もっとも水遊びのほうに夢中だったわたしたちには、洗剤とワックスのほうは必要なかったわけだけれど。 今日の勤務を終えたという猿野くんは濡れたまま、運転席に乗り込む。 御柳くんはトランクを開けて半身を突っ込むように掻き回し、ぐしゃぐしゃのすこし薄汚れて見えるタオルを取り出す。
「拭くか濡れてるか、まあ俺はどっちでもいいけど」
わたしにはタオルを渡し、ばたんと大きな音を立ててトランクを閉めると、御柳くんも濡れた服のまま後部座席に乗り込む。 色を濃くした毛先から滴り落ちた水がくっきりと骨の形を浮かび上がらせる肩に滑り、わたしはなんだか見てはいけないものを見てしまったようにどきりとして、慌てて視線を逸らして、足と腕の水滴をおざなりに拭って車に乗り込んだ。
「んじゃ、お疲れ様でしたあ」
大きく手を振る猿野くんに、揃いの赤いツナギを着たほかのスタッフさんたちも軽く手を挙げる。 御柳くんも愛想良く手を振り、わたしはちいさく会釈する。 空色の車はエンジンを唸らせる。 その巨体を操るのは猿野くん。 ファミマ寄って、と御柳くんが。 猿野くんはおう、とフロントガラスの向こうの車の流れの途切れるところを待ちながら応じて。 給料日だっていう猿野くんをスポンサーに、今日はスタミナ付けるために中華でも食べようと。 夕暮れに染まり始めたアスファルトの上走り出す。 歩道脇に立つ合歓の木には、盛りを過ぎた花がそれでもまだ薄紅の扇を広げていた。 わたしたちの暮らす街。

結局わたしは同居人の待つオートロックの賃貸マンションには帰らなかった。 その日も、その次の日も。 最初は替えの衣類もないままに、御柳くんのシャツと猿野くんのハーフパンツだけを着て洗濯機で洗った自分の服をドライヤーの熱風で乾かして、次にはスーパーで安物の衣類を買って、それから部屋へ一旦戻って旅行用のちいさな車輪のついたキャリーバッグがはち切れそうなほどの荷物を詰め込んで。 友達は心配と呆れをごちゃ混ぜにした顔でほんとに変なオトコじゃないんだねと何度も念押ししたけれど、この部屋の家賃もちゃんと入れるしほんとうに、おかしな関係じゃないの、そういうと溜め息をひとつ落としていつでも戻ってくんだよここは檜の家なんだからね、そう言って冷蔵庫を開けて、うーんなんにもないけどとりあえずこれでも、と買い置きの焼きプリンとアロエヨーグルトと杏仁豆腐をスーパーの買い物袋に入れてくれた。 いってらっしゃい、と言いながらもキャリーカートとデザートの入ったビニール袋を持って一緒にエレベーターを降りてエントランスまで見送ってくれた彼女は、路上に停められた車とその車内で何やら揉めているらしい(そのときはわからなかったけれど残り少なかった猿野くんのメローイエローを御柳くんが全部飲んでしまったのが原因らしい、最近滅多に見ないのひさびさに見つけたのにと猿野くんは大騒ぎして、わたしは勿論それをつまらない喧嘩だなんて馬鹿にできやしない)猿野くんと御柳くんを見て、で、どっちなの顔のいいほう?元気ありあまってそうなほう?とにやっと笑って小声で尋ねるから、だから本当に、信じてくれないかもしれないけどほんとうに違うの、わたしも何度も同じ言葉で否定する。 何も違わないと、今ならおもうかもしれないけれど。

凪ちゃんに、後ろめたい想いがないではなかった。 猿野くんが凪ちゃんのことを話題にすることはほとんどなかったけれど、看護士になるために東京の大学に通い、向こうに住んでいる凪ちゃんとメールや電話で頻繁に連絡は取り合っているようだったし、わたし自身もときどきメールのやり取りはしていた。 神戸の大学に行ったもみじちゃんが帰ってくる長期の休みには集まって、ケーキをつつきながらお茶だってした。 わたしは嘘はつかなかったけれど、ほんとうのことの全部も、言わなかった。 そのときにはあのピアスをしていた。 髪で隠れたその下に、猿野くんと御柳くんがくれた、真珠のピアスを。 猿野とはまだ付き合ってんだろ?ほんとよく付き合ってられんなあんなバカと。 もみじちゃんの口から飛び出したあんまり直接的な言葉にも凪ちゃんはええ、猿野さんは素敵なひとですよと笑って。 わたしは、笑えなくて、すこし俯いたけれど。 わたしだって知ってる、なんて、言えるはずがなくて。

御柳くんにしたところで、カノジョ、というのが居ないはずなんてないのだ。 あの部屋に連れてくることはなかったし、猿野くんとふたりでお金を出し合って買って、ふたりで管理しているというあの車に乗せている様子も窺えなかったし、電話しているところやまして会っているところ、というのも見たことはなかったけれど。 ときどき御柳くんが帰ってこない夜はあって、そういうときには必ず猿野くんがいて、ふたりで食事をして、あまり口数の多くないわたしを相手に猿野くんはガソリンスタンドの店長さんの話やさっき見たテレビの話やなんかをおもしろおかしくしてくれて、そして普段よりちょっと広い部屋でふたりで眠った。 その逆に猿野くんが帰ってこない夜は、御柳くんが運転する車でファミレスに行って、おろしハンバーグ定食やスパゲティカルボナーラを食べたりして。 そしてその翌日にはまた3人で。

猿野くんも御柳くんも、わたしに帰れとは言わなかった。 わたしはそれをいいことにずっと甘えて。 どうしてそんなことをしたのだろうと。 たのしそうで、刺激的に見えたからだろうか。 わたしの見知らぬ世界に繋がるみたいな、ふたりが。 それともただ、一緒にいたかったから、だろうか。 夏だったから、だろうか。 ときどき荷物を取りに行ったり、どうしても猿野くんも御柳くんも帰れないからという日には、同居人の待つあの女性専用マンションのほうに泊まる(そうだもう帰るという感覚ではなかったのだとっくに)こともあったけれど。 一度泊めてしまったらもう何度もずっとも同じだと、拾い物の面倒は本当に最後まで見ると、そういうわけでもないのだろうけど、お前も物好きだなと猿野くんは言っただけで。 いつのまにかわたしのための合鍵が作られて、その鍵には妙なところで器用な猿野くんが作ってくれた猫神様を模したマスコットがぶら下がって、わたしの歯ブラシが洗面台には置かれて、わたし用のシャンプーが狭くて足なんかぜんぜん伸びない狭い浴室に置かれて、部屋の隅ではタオルに隠されてわたしの下着が干されて、わたしのためのごはんの茶碗やマグカップが増えて、わたしのために猿野くんと御柳くんは同じ布団で寝るようになって狭いだのお前が無駄にでかいのが悪いだの喧嘩をしながらいつの間にか揃った寝息を立てて。

アパートの前の月極駐車場で花火をした。 打ち上げ花火やロケット花火を、説明書きの絶対にやってはいけませんの図の通りに手に持ってお互いに打ち合う猿野くんと御柳くんを見て声を立てて笑いながら、わたしは線香花火をして。 10月5日の御柳くんの誕生日には、御柳くんが大学へ行っている間に猿野くんとふたりでケーキを焼いた。 オーブンなんて当然持ってなかったけれど、ふたりで調べて炊飯器でスポンジを焼いて、生クリームを力一杯泡立てて、つやつやの苺を飾って、チョコレートプレートにはばかおめでとうというすこし歪な文字で書かれた、これでこそバースデーケーキだっていう見事なのを。 帰宅した御柳くんを電気を消した真っ暗な部屋で待ち構えて、ぎいぎい軋む立て付けの悪いドアが開いたところでクラッカーを鳴らして、驚いた顔を懐中電灯で照らして携帯のカメラで撮影して、ハッピーバースデーとふたりで歌ってケーキを差し出して。 細いキャンドルは20本。 御柳くんはンな餓鬼くせーことしなくていいっしょつか何ッ回も言うけどばかじゃねえと言いながらもキャンドルの火を一息に吹き消して、お前だけまだ未成年だったんだなーそうかそうかと年上ぶった猿野くんとふたりでビールの瓶を何本も空にした。 わたしと猿野くんがふたりで選んだプレゼントは、無駄遣いすんなよってメッセージカードを付けたキャメル色の二つ折りの財布で、御柳くんはその翌日からウォレットチェーンで繋げたその財布をいつもジーンズの後ろのポケットに差し込んで。

クリスマスが近付くと猿野くんがどこからか調達してきた本物の樅の木をアパートの階段の下に立てて、隣の部屋に住むちょっと派手で酒焼けなのか声が嗄れてちょっと口の悪い、でも気のいいおばさんや、階下に住むいつも無口だけどにこにこしている大家さん夫婦なんかのアパートのみんなで飾り付けた。 クリスマスイヴには揃わなかったけれど、25日の夜には3人で、既に安売りになっていたサンタクロースの乗ったケーキを食べてプレゼントを交換した。 わたしが迷いに迷った末に猿野くんと御柳くんに買ったのは、色違いのヘッドフォン。 猿野くんには黒地に大きな星が白く抜かれたもの、御柳くんにはその反対の白地に黒い星。 クリスマス用の赤いラッピングペーパーに包んで金色のリボンを掛け、階段の下のツリーから拝借した天使のオーナメントを飾った。 喜んでくれるか心配だったけれど、猿野くんはおおこれいいな!と早速耳に当てて、どこにも繋がっていないから音なんか何にも鳴っていないのにひとりで歌ってエアギターを始める。 御柳くんはお前男同士で色違いは寒いっしょ、と言いながらもあんがとなと八重歯を見せて笑ってわたしの頭を軽く叩いた。 猿野くんは御柳くんに俺様の写真集じゃと何枚もプリントした自分の写真をアルバムに並べたもの(それも丸く切り抜かれたりコメントが書き込まれたりと結構凝っていて、その中には御柳くんやわたしがいっしょに写っているものも少なくなかった)を押しつけて、いるかボケと渡したそれで頭を叩かれたところで、んじゃしょうがねーなと御柳くんが欲しがっていたというCDをタワーレコードの袋に入ったまま放り投げた。 御柳くんはガソリンスタンドと運送会社のバイトを掛け持ちしている猿野くんにはこれしかないといって段ボール箱1つ分の栄養ドリンクをどんと置いた。 いや飲むけどよ!と猿野くんは一通り文句を言ってからその何本かを冷蔵庫に入れ、お前来年は倍返しだぞとイベントを間違えているようなセリフを吐いた。 わたしには何を用意してくれているのだろうと期待しつつもすこし緊張していたのだけれど、猿野くんが出したのはちいさな白い紙袋に入れられた、銀色の綺麗な紙とリボンで飾られたちいさな箱だった。 これ、俺と御柳からな。 開けていい、と尋ねて紙を破らないようにそっとそっと剥がしていく。 猿野くんと御柳くんの視線を指先に感じる。 わずかに息を詰めて。 現れたのは群青色の天鵞絨の箱で、高鳴る心臓が煩くて、指先に集まる視線にいっそう震えそうな指でそっと開けてみると中から現れたのはふた粒の乳白色と虹の輝きだった。 真珠。 呟いたわたしにまあ俺らに買える程度の安モンだけどなと御柳くんが付け加えたけど、ううん、すごく嬉しい、ってなんとか出した声に涙が滲んでいなかっただろうかとわたしはつまらない心配をして。 真珠のピアスがうれしかったわけじゃない。 勿論、綺麗なその虹色は女の子が嫌がるものじゃあないしそれそのものだってとってもうれしかったのだけれど。 女の子扱いしてもらったのがうれしかったのだ。 とはいっても、猿野くんも御柳くんも、普段からわたしに対してすごく女の子らしく接してくれる。 猿野くんはバイトの掛け持ち、御柳くんも大学にバイトと忙しいのに、ふたりともの帰りが遅くなるということは絶対になくて、必ずどちらかが夜は家に居てくれたし、バイトや試験前の勉強で帰りが遅くなるときにはあのインパラというおおきなとても目立つ車で送り迎えをしてくれた。 過保護かもとすこしくすぐったくて、たぶん、しあわせだった。 それでも女の子、というよりもなんだか子供扱いされているようで、それがほんのすこし、不満だった。 真珠のピアス。 なんだかおとなびたそれをわたしに。 ちゃんとした女の子としてわたしを見てくれたみたいで。 それがとてもうれしかったのだ。 しかも6月生まれのわたしの誕生石を。 御柳くんの誕生日を祝ったときに、猿野くんにいちどだけ訊かれたそれを、ふたりが知っていてくれたなんて。 でもわたし、ピアス開いてないかも。 照れ隠しもあってちょっとだけ気まずくそれを告白すると、え、そうだっけと猿野くんが口を開けて、御柳くんがほら見ろよボケと猿野くんの頭を叩く。 ぱんという小気味いい音が響く。 俺は開いてたっけっつったけどおまえがピアスでいいっつったんじゃねーかと御柳くんが罵り、いや、だって、あ、そーいやいつも髪で耳隠れてるもんな見たことなかったごめんな、と猿野くんが詫びる。 店持ってってイヤリングに交換してもらってくればいいっしょと御柳くんが天鵞絨の箱に手を伸ばしかけたけどわたしは慌ててそれを自分の胸元に引き寄せ、いいの、開けるから、と早口で伝える。 え、でも、と言う猿野くんに、いいの、これがいいのとわたしにしては珍しくはっきりと意思を伝えて。 翌日本当にピアッサーを買ってきてくれたのは御柳くんで、マキロンで消毒したわたしの耳にばちんと恐ろし気な音を立てて機械を突き立てた。 猿野くんは隣でぎゃあこえー女の子ってなんでそんな怖い思いしてまでピアスなんかすんのと買ったのは自分でもあるくせに大騒ぎをして、痛くねえ?痛くねえ?と何度も尋ねた。 これここに市販のピアス通してすぐ使えるタイプだから、そう言って腫れてじんじん痛むわたしの耳たぶに真珠のピアスを御柳くんはかちりと音を立てて填めてくれて、まだ怪我でしかない穴によって熱を持つ耳たぶに触れるすこし温度の低い指先の心地良さに、わたしの心臓はなんだか締め付けられそうになって。

年末には一旦実家に帰って両親と過ごしたけれど、元旦には3人で初詣をして。 おみくじを引いてわたしは中吉、御柳くんは大吉だったけれど猿野くんは凶を引き当てて、逆に珍しいんだってよかったなと慰めなのか何なのか分からない言葉を御柳くんに掛けられて。 薄く雪が積もればちいさなちいさな雪だるまを作って。 ジャンボチャーハン30分で食べ切ったら1万円!なんてチャレンジを猿野くんがやりたがって御柳くんもいっしょになってふたり揃って食べ切って、賞金でまた祝杯だといって焼き肉を食べに行って。 電気を消した部屋の中でした鍋は、甘ったるいような薬臭いような刺激臭のような、すごい匂いがして。 ぐにゃぐにゃこりこりどろりする甘いとか辛いとかを通り越して味があるのかないのかすらわからなくなってしまっているようなその中身をひとくちふたくち食べて無理かもと呟くと、右からお葬式みたいに暗い声でおう無理はすんなそれが懸命っしょと声がして、なんだおまえらのために折角用意したんだろうが!世界一臭い缶詰も!と輝かせた顔が容易に想像できる声が左から聞こえて。 駅前のミニシアターのレイトショーのスプラッタ特集で、ふたりの間に座ったわたしの持つカレーフレーバーのポップコーンを左右から伸びる手が摘みながら死霊のはらわたを見て。 隙間風の吹き込むアパートの22インチのテレビで金曜ロードショーのラピュタを見て。 初めてスノーボードをして。 河原でバーベキューをして。 近所の公園で手作りのお弁当を広げてお花見をして。 猿野くんはひとりで衣装をとっかえひっかえして、歌を歌ったり漫談やコントみたいなことをして隣で花見をしていたどこかのおじさんに気に入られてしまって、勧められるままにビールを呑んでアパートへ帰りつくまでに何度も電信柱に挨拶をしたりして。 アパートのお風呂は狭いからとときには3人で銭湯に行って。 今時のスーパー銭湯なんかじゃない、富士山の絵が描かれた銭湯へ、歌の歌詞みたいに洗面器にシャンプーや石鹸、タオルやなんかを入れてつっかけを鳴らしながら歩いて、男湯と女湯で30分後だぞと待ち合わせて別れて、決まって猿野くんと御柳くんが先に出てコーヒー牛乳を飲みながら待っていてくれて。 旅行にも行った、あの空色の車で。 とんこつラーメン食べに行こうぜと猿野くんが言って、車の中で毛布を被って眠って、九州は博多へ。 屋台のラーメンを食べて、おみやげに明太子を買って。 途中でエンジンがトラブルを起こし、猿野くんと御柳くんがふたりでボンネットを覗き込んでいたけどどうにもならなくてJAFを呼んで高い修理費を取られて。 2時間ドラマをゼッタイこいつが犯人だよなと薄幸そうな女優を指差し見終わってからここ行こうぜここと東尋坊へ。 おいお前押すなよな洒落なんねーからなと御柳くんがすこしだけびくつくところへ、猿野くんがやっぱり後ろからそっと近付いて大声で脅かして。 それから、海には何度も行った。 夏の終わりにも、秋にも、冬にも、春にも。 どっか行こうぜ、言い出すのはだいたい猿野くんで、目的地がないときはだいたいどこかの海へ辿り着く。 海月の死骸が打ち上げられた海。 無人の海。 冷たい風が吹き付ける海。 朝の、昼間の、夕方の、夜の、海。 いつもあの空色の車で。 真っ暗な夜の、ヘッドライトの中を。 明け方の鴇色の空をバックミラーに映して。 冷たい雨がガラスを滲ませると、曇った窓に指先でドラえもんやアンパンマンのらくがきをしながら。 蒼天が紅色に染まり始めるグラデーションを眺めながら。 車と同じ色の空の下、窓から吹き込む風に、車と同じ色の髪を揺らせて。 わたしも免許取ってみたいかも、わりと本気で言った言葉に猿野くんは、だめだめゼッタイダメだって危ないし!猫湖ちょっとぼんやりしてるとこあるし!でなくてもこっちが気をつけてても向こうからぶつかってくることとかもあるし!クルマ乗りたいんだったら俺か御柳がいるだろ!と捲し立てた。 教習所に通えばわたしだって運転くらい出来るはずだと反論しようとしたけれど、やっぱりやめた。 わたしのためにあの空色のドアを猿野くんと御柳くんが開いてくれるっていうなら、それで。

そうして季節はひと巡りして、また夏がやって来る。


惑星に3人ぼっち(だったらよかった)